第1章 ローマ帝国内のクリスチャン

ローマの宗教

 キリスト教が広まって行ったローマ帝国にも、自分たちの宗教がありました。初代教会の背景として、ローマの宗教がどんな特徴を持っていたかを、はじめに概観します。

 それは心を問題としてはいましたけれども、同時に社会的に有用かどうかを問題にする宗教でした。そこで第一に、非常に寛容な宗教だったと言うことができます。多くの神々がいました。組織立った礼拝はあまりありませんでした。各地域において、また帝国全体において、役に立ちさえすれば新しい神々を導入し、それを礼拝するのです。ですから、もしキリスト教が偶像礼拝を拒否しなかったならば、ローマ人はキリストを神々のひとりとして簡単に受け入れたことでしょう。多神教には寛容でした。

 第二に、帝国全体を一つにまとめるのに役立つ宗教であれば何でもよい、とされました。社会を統一することがローマにとっていちばん重要な課題だったのです。地方都市と国家の繁栄を願って、神々に祈りがささげられました。正しい礼拝の儀式をしていないと、ローマの平和と繁栄は壊れると考えました。帝国の神は怒りの神という一面を持っていました。神の怒りをなだめる献げ物をしないときに、地震、かんばつ、飢饉というかたちでその怒りがくだるのです。神々への礼拝はローマ社会の安定を意味します。地震が起きても、ナイル河の水位が上がらなくて充分な収穫が得られないときも、誰かが神を怒らせたということになります。そうなると人々の非難はローマの神々を礼拝しないクリスチャンに向けられました。(クリスチャンは「無神論者」と呼ばれていました)。こうして、自然の災害がしばしばクリスチャン迫害の引き金となりました。クリスチャンが地域の一体性を壊していると考える人もたくさんいました。当時のローマには6日働いて1日休むという制度はまだありませんでした。ローマの宗教の祭日があり、その日は市民が集まって儀式をし、酒を飲むのです。けれどもクリスチャンはこれに参加しない、社会の異分子でした。

 第三に、ローマの宗教は、国家に対して忠誠を誓わせるという政治的な働きをしていました。ローマ皇帝が神として礼拝されたからです。皇帝礼拝は小アジア地方で、アウグストゥス帝のときに自然発生的に始まったものです。彼が紀元14年に死んだ後、徐々にローマ帝国全体で、皇帝礼拝が行われるようになりました。他の神々への礼拝とともに、皇帝礼拝が進められました。皇帝に香をたくことが定期的な祭りとなり、それが皇帝に対する忠誠心の表われとされました。これに参加しなければ、政治的に危険な人間ということになります。この点でもクリスチャンは異分子でした。ローマは神政社会だったと言ってもいいでしょう。皇帝に対する宗教的忠誠心が社会の中心にありました。宗教、政治、経済が一つに統合されているのです。そこに溶け込まないのは、普遍的な価値観、連帯性を拒否すること、社会全体を脅かす者とされました。クリスチャンに対する迫害が起こったのは当然でした。

 なぜクリスチャンはローマにとって脅威だったかといえば、クリスチャンが暴力を否定したため、という点も指摘しておくべきでしょう。彼らは軍事的反乱に加わりませんでした。宗教だけでなく、この点でも彼らは異分子だったのです。

 

ローマ帝国による迫害

 初代教会を「迫害された教会」とする理解があることは、すでに述べました。けれども3世紀の間、いつもクリスチャンが迫害されていたわけではありません。ローマ帝国の法律の下でクリスチャンが最初どんな状況に置かれていたか、あまりはっきりしていないのですが、キリスト教は始めのうち、ユダヤ教の一部と見られていました。ユダヤ教は一応宗教の自由を与えられていて、ローマ帝国の中での公的な礼拝に参加しなくてもよいという特権がありました。ですからキリスト教に対しても、圧力はあまりかからなかったのです。しかし徐々に、キリスト教はユダヤ教とは違う宗教だということが分かってきました。64年、皇帝ネロによる大迫害が起こりました。このとき、パウロとペテロが処刑されたと思われます。キリスト教はユダヤ教の一分派ではなく、「迷信の宗教」、非合法の宗教とされました。ローマ帝国の法律に基づいて迫害してもよい宗教だとされたのです。迫害は地域の状況により異なりました。それはその地方の指導者が、、キリスト教に対してどのような態度を取るかにかかっていました。117年にはリヨンで大きな迫害が起こりました。ローマ帝国全体にわたる大迫害は251〜252年、256〜258年、303〜312年にもありました。それ以外は、局所的な迫害でした。ですから、一生を迫害と無縁に過ごしたクリスチャンもいました。しかし、クリスチャンはいつも迫害と殉教を覚悟して生きていたと言わなければなりません。

迫害に耐えるクリスチャン

 迫害はいろいろなかたちを取りました。ある人々は鉱山で重労働を課せられ、他の人々はガレー船を漕ぐ奴隷とされました。もちろん死刑にされた人もたくさんいました。どのように殺されるかは、どの社会階級に属しているかにより異なりました。ローマ市民以外の者は野獣の餌食となり、ローマ市民であれば首をはねられました。もしローマに対する反逆者と見なされれば十字架刑になりました。ローマの役人はこれ以外にもさまざまな拷問、殺害の方法を考え出しました。(九州でキリシタンが迫害されましたが、そのとき用いられた方法によく似たものが、ローマでも行なわれていました)。いちばん恐ろしいものの一つは、鉄の椅子を真っ赤に灼熱させ、それに座らせるというものです。このような迫害は、ローマの安定を脅かす者に対しては当然のこととされました。

 女奴隷のブランディーナは、リヨンのクリスチャンのグループのリーダーでした。何度も拷問を受けました。しかしその信仰はゆらぐどころか、ますます強められたのでした。彼女は他のクリスチャンたちに、イエスに忠実であり続けるよう勧めました。鞭打たれ、野獣をけしかけられました。しかし野獣は彼女を襲おうとしませんでした。灼熱の椅子に座らされました。最後に野牛の前に引き出され、地面に投げ飛ばされて死んだと言います。(わたしはアメリカで学生たちと一緒にこの話を読みました。クラスの中にひとりの医者がいたのですが、彼女の忍耐は人間の限界を越えている、とその学生は言いました)。ブランディーナは奴隷でしたが、記録によると、本来は上流階級の出身です。最後まで真に威厳のある態度を貫いて、それが人々に深い感銘を与えたのでした。

迫害の結果 

 迫害はキリスト教にどんな影響をもたらしたのでしょう。

 第一に、迫害のためにクリスチャンの数が減ったことは確かです。ある人々は迫害を恐れて、教会に参加するのをためらいました。迫害が起きたときに信仰を捨てた人もいました。クリスチャンはそのような人々を「流産した者」と呼びました。

 第二に、迫害は異教徒の間に、ある問いを起こしました。ブランディーナの最期を見た人々はふしぎに思ったのです。信仰が彼女にどんな利益をもたらしたというのだろうか。迫害を受けてまで、なぜ信仰を守り通そうとしたのか。人々は驚きを感じ、質問を抱き、自分の人生を顧みるようになりました。

 第三に、そういうわけで、迫害が回心を生み出す一つのきっかけになりました。殉教するクリスチャンを通して人々は神を知らされました。十字架のもとにある教会が十字架の主を人々に示す、と言ってもいいでしょう。ある学者は言います。殉教はキリスト教を公に知らせる最もよいチャンスだった、と。迫害に遭うクリスチャンの尊厳と忍耐が大きな問いかけとなって、人々を信仰へと導いていった、と言うのです。次のような記録(2世紀半ばのもの)が残っています。

 刑罰を受ける人が増えれば増えるほど、彼らの数が増えるのをあなたは見ないか。この人たちのしていることは人間の働きとは思えない。むしろ、神の力だ。神の力が彼らの間で働いていることの証拠だ。(『ディオグネートスへの手紙』七. 8〜9 下線は著者)

 ユスティノスは2世紀始めのキリスト教弁証家ですが、彼もまた、迫害されている人の態度を見てクリスチャンになったと言われています。テルトゥリアーヌス(2世紀から3世紀にかけての最大の神学者とされる)の次の言葉はよく知られています。「クリスチャンの殉教の血が[信仰の]種となった」。

 ピューデンスという牢獄役人がいました。その牢獄に囚人が捕らえられて来ました。北アフリカ出身の貴族であった若い母親ペルペトゥアとその女奴隷フェリーキータス、そしてほかに3人の男性です。二人の女性はキリストにある姉妹でした。この女性たちの殉教の物語は、クリスチャン女性によって書かれた最初の文書に記されています。ペルペトゥアは牢獄の中で赤ん坊を産みました。ペルペトゥアの父が来て嘆願します。どうか白髪の父を哀れんでほしい、この赤ん坊のことを考えてほしい。キリスト教を捨てて、皇帝へのささげ物をしてほしい、と。心動かされる話です。クリスチャンは互いに祈り合い、励まし合いました。牢役人のピューデンスはそれを見て、心を打たれます。彼らの間にふしぎな力があることを知ります。

 ついにクリスチャンは円形劇場に集められ、兵士たちによって鞭打たれ、猛り狂う野獣の中に放り込まれます。まだ生きているクリスチャンを兵士が剣で刺し殺そうとします。そのとき、ひとりのクリスチャンがピューデンスの所へやってきて言いました。あなたの指輪をはずしてください。指輪を受け取ったクリスチャンは、それに自分の血をつけ、ピューデンスに返して言いました。さようなら。わたしを、わたしの信仰を忘れないでください。

 神の大きな力がこの人々の上にありました。ピューデンスは心に問いかけられるのです、あなたはどう思うか。そして、信仰の一歩を踏み出してバプテスマを受けてください、という語りかけを聞きます。あなたが今生きている社会とは違う社会、イエスを主とする世界に入ろうと思いませんか。迫害で死んでいった人々によって心を動かされませんか。自分もまた迫害されてもかまわない、と思わないでしょうか、と。(『ペルペトゥアの殉教』 9、16、21)

 

ローマ社会とクリスチャン

 クリスチャンがその信仰のためにローマ社会では異分子であったことはすでに述べました。それが迫害の一つの理由でした。周囲の人から見ると、彼らはよく理解できない秘密の集会をしているように思われました。一般の家族とは違う、別のグループと連帯感をもっている人たちに見えました。そしてその運動はどんどん広がりつつあるのです。そこで、ローマの社会がどのようにクリスチャンを脅威と感じたのかを次に見ていきます。

クリスチャンの連帯感 

 クリスチャンはローマ帝国の中に住んでいましたが、彼らの真の故郷は別の所にありました。すべてのものの創造主である唯一の神に従って生きていたからです。彼らはローマの裁判官の前に引き出されると次のように答えるのでした。お前は何者だと聞かれると、自分の名を言う代わりに、わたしはクリスチャンですと言います。わたしはローマ人ですとも言いません。クリスチャンという言葉の中に彼らの連帯感がひそんでいました(エウセビオス『教会史』 5 . 1. 19, 20など)。彼らはローマ帝国の中に住んでいても、自分は異邦人だという意識を持っていました。ギリシャ語のパロイコイ(「寄留者、仮住まいの身」の意)です(第一ペテロ 2:11参照)。クリスチャンは自分たちのことを言い表すのにこのパロイコイという言葉を用いました。ローマ帝国内に住んでいてもその市民権に頼らず、その地域の基準に従わないで生きる人々なのです。

 有名な『ディオグネートスへの手紙』にはこうあります。「クリスチャンは、〔その住む〕国によってあるいは言葉使いによってまた服装によって、他の人々と区別することはできない。……自分の国に住んでいるが、ただ寄留者として住んでいるだけである。どこに住んでいてもその地が彼らの故郷であり、すべての故郷は彼らにとって異郷の地である」(第5章)。住む場所がどこであろうと、そこを自分の故郷とする柔軟性をクリスチャンは持っています。しかし真の故郷は地上のどこにもありません。他の人々と同じように住んでいるのです。けれどもどこか違っていました。(これはわたしたちにとって大きなチャレンジです。ある人は外国に住むことを求められるかもしれません。そのとき、そこに住んでいる人々といかに連帯していくかが大切になります。しかし一つの場所にずっと住んでいる場合には、信仰の故にどう他の人と違った生活ができるかが大事です。それが寄留者として住むことです)。

 クリスチャンは当時の世界全体に広がる連帯感を持っていました。あらゆる所でクリスチャンの数は増えていました。彼らはローマ帝国の中にも、ローマの敵とされたいわゆる「蛮族の国」(ローマ人は周囲の外国人をバルバロス、蛮族と呼んだ)にも住んでいました。そして、何か大きな世界の一部であると感じていました。彼らは「地域を越えた一体感をもっていた」とある学者は言っています。クリスチャンはこれをcatholicity(普遍性)という言葉で言い表しました。キリスト教のアイデンティティは国家や地域によるのではありません。信仰によって全世界から呼び集められた新しい国の住人、新しい家族の一員なのです。キリストにある者は、神の家族に属する息子、娘、兄弟、姉妹でした。

 クリスチャンに対する審問の場面を、もう一度考えましょう。裁判官がマルタという女性に、お前はどこの出身かと尋ねるのです。わたしはピオニウスの姉妹です、と彼女は答えます。裁判官の問いに対する答えにはなっていません。けれども彼女にとって重要なのは、自分がどこで生まれたかではなく、自分が誰に属しているかということでした。自分がキリストに属していること、そのために親しい家族を持つことができた、ということをクリスチャンは大切にしたのです。

キリストへの忠誠

 『キュプリアーヌスの殉教』という文書にこんな言葉があります。「キュプリアーヌスはウァレリアーヌス帝の時代に殉教した。真実の主であられるイエス・キリストの支配のもとに」。クリスチャンは皇帝の支配を認めなかったわけではありません。しかし皇帝でさえも、ほんとうの王なる主イエス・キリストの支配のもとにいると考えました。ですからクリスチャンは、政治的にはやっかいな人々でした。ローマ帝国の住民であっても、その忠誠心はより大きなものに向いていたからです。テルトゥリアーヌスは言いました。「一つの国だけを、われわれは知っている。そして我々はそこの市民だ。すなわち全世界を包含する国である」(『弁証論』 38. 3)。

 クリスチャンはサクラメント(礼典)を通して信者となりました。サクラメントとは、もともとラテン語で「誓い」を表わす言葉です。ローマの軍人は軍隊に入る時、ローマ皇帝への服従と忠誠を誓いました。それが兵士のサクラメントでした。クリスチャンはバプテスマというサクラメントを通して新しい世界に入ります。それは究極的な忠誠がどこにあるかを明らかにする儀式でした。皇帝ではなく、キリストがわたしの主であるということです。これらすべてが、ローマにとって、クリスチャン迫害の”正当な”理由になりました。

異教徒の批判

 北アフリカのカエキリウスはキリスト教の批判者でした。200年頃、彼は次のようにクリスチャンを描写して、彼らに対する自分なりの判断を述べました。

 [クリスチャンどもは]信用のできない・法からはみ出た・ならず者の一団だ……下層階級の「くず」から出てきて、無知な男とだまされ易い女とが――女はもともと不安定なものだが――群らがる。そして不信心な陰謀者たちの烏合の衆をつくる。彼らの夜の集会で、また宗教のためと称する断食で、あるいは騒々しい食事で彼らを一つにするきずなは、聖なる儀式ではなく、犯罪だ……[彼らは]闇にうごめき、光を避ける秘密の種族だ。公共の場では沈黙を守り、ものかげでおしゃべりをする。(ミニキウス・フェーリクス『オクターウィウス』 8. 4に引用 下線は著者)

 このような外部の人の見方が正確な理解を持っている場合があります。カエキリウスによると、クリスチャンは次のような者ということになります。

 第一に、体制に順応しない危険分子である。そのようなグループは社会にとって脅威となります。

 第二に、公なメッセージが危険だということではない。クリスチャンは社会の中で目立つ存在ではありませんでした。「光を避け」なければならなかったのです。目立てば迫害を受けると知っていましたから。

 第三に、しかしこのグループは社会に「挑戦」をしている。無知な人、女の人、下層階級の人々が集団をつくっているからです。しかもその人たちは、上に引用した文書によると、知的な人物であるオクターウィウスと会話をしているのですから、閉鎖的なグループではありません。

 第四に、何か怪しげなことを強いる連中である。夜集まっています。「騒々しい食事」をしています。何か犯罪が行なわれているに違いない。社会の中で大切にされるべき価値が、彼らによって脅かされているに違いない、とカエキリウスは言います。隠れてやっているというのですから、実際に何をしているのか、ほんとうは分からないのです。カエキリウスはただ推測して、クリスチャンの噂を伝えているだけなのです。

 第五に、「ものかげでおしゃべり」をする。秘密の場所で何かを話していると言います。公共の場では黙っているが、陰で活動し、一生懸命しゃべっている。熱心に証しをしているクリスチャンの姿がここにあると言ってもいいでしょう。

 この文書は当時のクリスチャンに対する一般の人々の感じ方をよく表わしています。キリスト教がどのように広がったかを、示しています。キリスト教は非公式に広がっていった宗教でした。彼らの共同の生活が多くの人の目を引きました。それから、クリスチャンは個人的な語らいを通して、自分たちのしていることを説明しました。キリストにある希望を証ししました。初代教会の発展は意図的なものではなかったとある歴史家は言います。他の人々と違う生き方をしていた。それはなぜかと質問されて、その違いを説明し、そして広がっていった、と言うのです(E. Glenn Hinson, The Evangelization of the Roman Empire)。あるドイツの神学者によると、キリスト教はいわば伝染病みたいなものです。人と人が接触すると信仰がうつっていきます。初代教会で福音を宣べ伝えた人たちは、普通の世俗的な仕事で生計を立てていた人たちでした。ごく自然にいろいろな人たちと触れ合う中で、福音を伝えました。すべてのクリスチャンが宣教師だったということです。


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