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第7章 キリスト教の国教化

コンスタンティーヌス

 312年、ローマ帝国の支配をめぐって、東と西に別れていた二人の皇帝の間に、大きな戦いが始まろうとしていました。マクセンティウスとコンスタンティーヌスです。コンスタンティーヌスは十字架のしるしと、それから「これによって勝て」という言葉が空に描かれるという幻を見ます。さらにχとρのしるしを夢に見ます。ギリシャ語の「キリスト」という言葉の最初2文字です。彼は戦いに勝ち、統一帝国の皇帝になります。キリスト教の神によって勝利が与えられた、と彼は考えました。χとρの印と十字架の組み合せられたものが、このあとローマ帝国の至る所に現れるようになります。コンスタンティーヌスの彫像、王冠、墓、床のモザイク、矢の先などにつけられたのを今でも見ることができます。それまでは個人的に用いられていたシンボルが、ローマ帝国内で公式に用いられるようになりました。

 コンスタンティーヌスの母親ヘレナが敬虔なクリスチャンだったことは確かなようです。325年から326年にかけて、本物の十字架を探しにイスラエルへ行ったという話が残っています。最初のクリスチャン巡礼者だったわけです。イエスが十字架にかかったといわれる場所で、彼女はいくつかの十字架を見つけました。どれが本物か分からないので、それらをエルサレムの、病気で寝ていた老女の所に持って行きました。一つ目の十字架では何も起こらない。二つ目も同じ。三つ目の十字架を持って行くと、この女の人が飛び起きた、というのです。ヘレナはこの十字架を特別なケースに入れて持ち帰りました。十字架の”釘”は抜いてコンスタンティーヌスに渡すと、帝はこれを馬のはみに使ったそうです。ヘレナはパレスチナで聖なる場所を見つけては、そこに大きな教会をいくつも建てました。ベツレヘムにある聖降誕教会もそのうちの一つです。今でも多くの人々がこの教会を訪れます。

 

教会の変容

 ローマ帝国の皇帝がキリスト教を受け入れることになって、大きな変化が生じました。クリスチャンであることの意味、教会のあり方、教会と国家の関係などが大幅に変わりました。教会はもはや苦難に耐える少数派ではなく、権力を持った勝利者の教会となっていきます。いわゆるChristendom「キリスト教社会」の誕生です。「コンスタンティーヌス主義」と呼ぶ学者もいます。この変化をどう理解するかについては、さまざまな議論があります。時代が経つにつれて教会が進歩を遂げ、あるべき姿にだんだん近づいた、と見る人がいます。初代の教会ヴィジョンから少しずつ離れてしまったのだ、と考える人もいます。

 実はコンスタンティーヌス自身の信仰が本物だったかどうかについても、意見は分かれているのです。ただ戦争に勝つためにキリスト教を政治的に利用したのだ、とある人は言います。そうではなく、もっと真剣だったとわたしは考えます。しかしキリスト教を受け入れるに当たって、彼がバプテスマ志願者のための教育を受けなかったことは確かです。カテキズムによって人生を培われるクリスチャンとして生きたのではなく、あくまでも皇帝コンスタンティーヌスとして生きたのです。富や権力や戦争に対する考え方を変えることなく、新しく生まれ変わる経験もありませんでした。実際に彼がバプテスマを受けたのは、337年、死の前日のことでした。

 いずれにしても、コンスタンティーヌスの「回心」によって教会の状況が一変したことは明白です。今までとは違って、クリスチャンになれば、さまざまな面で有利だという状況ができました。彼自身、多くの財産を教会に寄付しました。多くの司教を宮廷に招き入れました。コンスタンティーヌスの時代は、キリスト教が大いに勧められた時期だったということができます。

 しかし392年になると、テオドシウス帝がキリスト教をローマの国教とします。それからはキリスト教が強制されることになります(Herbert Butterfield, Christianity and History参照)。教会が国家と手を結んで、社会を支配するのです。この事態をどう評価するか、学者たちの間で議論が続いています。伝統的・公的には、コンスタンティーヌス主義は教会に平和をもたらした、キリスト教はついに勝利を得た、という考え方が初めからありました。一方、初代教会の持っていたヴィジョンから離れたのだから、いわば教会の堕落がここから始まった、と言う人たちもいます。

 現代のカトリック教会の中においても、意見の違いが認められます。1983年、アメリカのカトリック司教たちは、わたしたちは初代教会に身近な感じを持っていると言いました。それは困難な宣教の業に励んでいる証しのグループの人たちです。現代社会の持っている価値観に対して、教会は批判の立場をはっきりさせなければならないというのです。しかし現在のローマ教皇は、中世を復活させたいと願っています。ヨーロッパのキリスト教文明をよみがえらせたいと思っています。さて、神学者だけでなく、歴史家の間にも意見の違いがありますが、わたし自身が教会の変容をどう見ているのかを、以下に述べます。

教会が大きくなった

 コンスタンティーヌス帝からテオドシウス帝にかけて、最も大きく変化したことのうちの一つは、言うまでもなく、教会が大きくなったことです。そのために、それまでの親密で打ち解けた交わりであった教会は姿を消しました。壮大で形式を重んじる教会になりました。また教会が成長するにつれ、権力を手に入れるようになりました。

 たとえば次のような例があります。389年、シリアのある司教は自分の地域の教会が大きくなることを望み、兵士や剣闘士を引き連れていって、その地の異教の寺院を壊そうとしました。彼自身は老齢で病もあったので直接手を下すことはできず、近くの丘に登って、その破壊の様子を見ていました。しかし彼は町の人々の気持ちを把握していませんでした。兵士が寺院を破壊している間に、待ちの人々は丘を登って来て、司教を捕らえ、火あぶりにしてしまいました。そこで地域のクリスチャンは、この司教を殉教者と認めた、と言うのです。しかし、このような暴力と強制によって大きくなる教会と、生活の証しによって、またイエスに従うために殺された多くの殉教者の血によって広がる教会とでは、ずいぶん意味が違うと言わなければなりません。

きよさ(聖)の見方が変わった

 初期のクリスチャンは、キリストにある人をみな「聖徒」と見ていました。たとえばパウロは教会に手紙を書くとき、「聖徒として召されたかたがたへ」などと記しました(第一コリント1:2ほか)。すべてのクリスチャン共同体は、聖なる共同体でした。すべてのクリスチャンが聖徒です。しかし教会が大きくなるにつれて、「聖」が特殊な意味に使われるようになりました。「聖人」は特別に聖なる人のことになりました。神がどの場所をも聖なる所として用いられるという考えの代わりに、特別にきよい場所が定められます。特別に聖なる品物、たとえば本物の十字架などがあがめられる、というようになりました。きよさの特殊化が起こったということです。神はすべての人々を清め、生活のあらゆる部分を清めてくださるというのではなく、特定の場所だけで、特定の人だけに働かれることになりました。

共同体の性格が変わった

 初期のクリスチャンは自分たちが「寄留者」(パロイコイ)の共同体であるという意識を持っていました。一時的に滞在する者です。ところがコンスタンティーヌス以降の教会では、この同じ言葉が、その土地に住む人すべての所属しなければならない教会を指して用いられるようになりました。(そこから英語の教区民、パリッショナーが出てきます)。すべての住民がクリスチャンになってしまったとき、教会とこの世の区別がなくなったのです。そしてこれからは、教会内部で、聖職者と信徒とが区別されるようになります。

宣教の使命を失った

 強制的にすべての人をクリスチャンにしてしまうならば、宣教の必要性がなくなります。バプテスマの志願者がどのような訓練の期間を過ごしたかをわたしたちは見ましたが、4世紀から5世紀にかけて指導的な役割を果たしたアウグスティーヌスはこう言っています。「まずバプテスマを授けてしまうのだ。そのあとで、新しい生き方を教えるようにする」(『信仰と働き』 9)。幼児洗礼が徐々に一般的になり、529年のユスティーニアス法典では、幼児洗礼を行なうべきことがローマ帝国の法律で規定されるのです。宣教がまったく無視されたわけではありません。ローマ帝国周辺の異教と接する地域では、キリスト教化が行なわれました。しかし国内では、宣教ではなく刷新運動、リバイバル運動が重視され、宣教は遠方の地で行なわれるのです。さらにまたこの場合の宣教は、ローマ帝国の軍事的、文化的、政治的な権力と結びついて行なわれました。

壮大な礼拝になった

 4世紀以降の礼拝は形式が尊重されるようになり、壮大な礼拝になりました。家の集まりではなく、大きな会衆のための礼拝です。そこでは荘厳な儀式が重んじられます。説教も日常の生き方の勧めというよりも、雄弁スタイルのものに変わりました。コンスタンティーヌス以後は日曜日が休日になっていましたから、いくら時間をかけてもかまわないのです。(ある文書に載っているその頃の説教を、声に出して読んでみました。2時間かかりました)。初代教会の特徴となっていた親密さが失われ、人と人とのつながりが薄くなりました。以前は神への礼拝の前に、兄弟姉妹との間に平和をつくることが大切な要素になっていました。今は心の中の平和/平安が大切にされます。「何にもまして、我々自身の心に平和を持つことが、我々の義務である」(『使徒憲章』 2. 54)。

倫理が変わった

 初代教会はイエス・キリストにならう生き方が倫理の基本でした。しかしコンスタンティーヌス以降は、社会の中でどう責任をもって生きるかが倫理の基準になります。イエスに従って生きる喜び、またおのずからつきまとう危機感が失われました。そして今は、体制の秩序づけと権威の維持をはかる倫理が要求されることになりました。

 聖職者と信徒では異なった倫理が適用されるようになりました。聖職者は質素な生活をし、持ち物を他の人と分かち合うように求められ、しかし信徒はできるだけお金を稼いで十分の一の献金をするよう勧められました。585年になると、教会を支えるために、献金ではなく十分の一税が導入されます。また聖職者は他人の生命を奪ってはならないのですが、信徒は「正義の戦い」の教理に従えばいいのです。一定の基準に従って、ある戦争が「正義の戦争」であると宣言されるならば、クリスチャンも敵の生命を奪ってよいことになりました。

 コンスタンティーヌス以後のクリスチャンは、社会のあらゆる部面に関われるようになりました。実のところ、クリスチャンでなければ社会活動に参加できなくなったのです。これをヨーロッパのキリスト教化と呼ぶ人もいます。確かによくなった点もあります。キリスト教のメッセージを妨げなく語れるようになりました。十字架刑が禁止されました。キリスト教のシンボルやイメージがヨーロッパの至る所で見られるようになりました。

 しかし、ヨーロッパのキリスト教化をどう判断するべきでしょうか。イエス・キリストの教えに従って生活しているかどうかという規準で見るならば、今のヨーロッパはどうなるでしょう。わたしは最近、九州で歴史を調べました。1945年8月9日、マリアナ群島から飛行機が一機飛び立ちました。操縦していたのはアメリカのカトリックの航空兵です。飛行機が離陸する前、カトリックの神父が祝福の祈りをしました。原子爆弾を積んだ飛行機は小倉に向けて出発しました。小倉に着くと雲に覆われています。そこで長崎に向かいました。航続距離の問題もあり、浦上に爆弾を落とすことになったのだそうです。ここは日本でいちばんカトリック信徒の多い所です。8万5千人のカトリック信徒が殺されました。さて、初代教会の感覚から言えば、飛行機を操縦している人と地上の人々は、同じカトリックの兄弟姉妹なのです。しかし現在の「キリスト教社会」では、全世界の信徒を家族とする教会への忠誠よりも、自分の国への忠誠の方が大事にされるのです。アメリカは、「正義の戦い」を実践しただけだと主張します。しかし初代教会の人々ならば、これに抗議することでしょう。そして一般の日本人は、ヒロシマ、ナガサキをキリスト教文明の所産と見ることでしょう。

神学が重視された

 4世紀になると神学が重要な問題となりました。3世紀の神学者が積み残した課題を、4世紀の学者が処理しなければならなかったのです。一つは、新約聖書の正典を決定することです。もう一つは、アリウス主義と対決して正統的なキリスト論の教義を確立することでした。ここから三位一体論が発展しました。そしていくつかの決定は絶対的に正しいものとされました。確かに、もしアリウス主義が勝っていたなら、教会は破壊されただろうと思います。しかし、神学のこのような重視は、三つの変化をもたらしました。

 第一に、真理について。初代教会にとって真理は、生活のさまざまな局面に関わることでした。しかし、今や真理は頭で考えること、正確な教義をどうつくるかということに変わりました。イエスがどのように生きたか、何を教えたかは、二の次になりました。使徒信条も、イエス・キリストの誕生と死には触れていますが、イエス・キリストがどのように教え、生きたかは何も言いません。つまり真理は知的なものになったのです。

 第二に、教理が正しいかどうかを決めるのは、「勝利者の教会」ということになります。さらに、教義を討論する会議はしばしば宮廷で行なわれました。これに集まる聖職者たちの旅行や宿泊の費用一切を、皇帝が負担したのです。このようにして決定された教義は、ローマ帝国の秩序を脅かすものであってはならなかったのです。

 第三に、初代教会が信じていたけれども、今やまったく捨てられてしまったものが二つありました。一つは教会論で、これはもとの形をとどめないくらい変わってしまいました。もう一つは宗教の強制に対する態度です。初代教会は宗教を強制することは異教的であると考えました。「[神がキリストを遣わされたのは]支配と恐怖と脅迫の務めのためだったか。いや、そうではなかった……救うこと、説得することを御旨とされたのであって、強制することではなかった。力づくの強制は神のご性質の中にはないからだ」(『ディオグネートスへの手紙』 VII. 3〜6)。しかしコンスタンティーヌス帝以降は、そのようなことは一切問題にしなくなってしまいました。

終末論が変わった

 初代教会はイエスがいつ戻って来られるか分からない、今かもしれない、という期待感の中で生きていました。したがって、その神の国にふさわしい生き方を追い求めていたのです。古い世界に住んではいるけれども、自分たちは新しい神の国の第一線にいると信じました。ところが、その終末論が二つの点で変わりました。ある人は、キリスト教帝国の中に神の国はもう来てしまった、と信じました。これ以上新たな神の国を求める必要はないというのです。一方、神の国はまだ来ていない、と言う人もいました。しかし神の国の標準に従って生きる必然性はないとその人たちは考え、そしてその考え方が支配的になりました。キリスト教は確立された社会の組織の一部となりました。この世の知恵、常識を自分たちも取り入れるようになりました。

 

結び

 現在のヨーロッパでは「キリスト教社会」の時代が終わりを迎えたことは確かです。力づくで支配したキリスト教のつくり上げたものは、今崩れ去ってしまいました。教会が生き延びるとすれば、それは強制的な力に頼ることによってではありません。むしろ、神の御霊に助けられ、クリスチャンが寄留者として生き、イエスの弟子として生きることによって、教会は生き延びることができるでしょう。つまり初代教会のヴィジョンを取り戻すことによってです。(日本もまた、まさに初代教会と似た社会状態の中で、少数派の教会が苦闘を続けているのではないでしょうか。初代教会にみなぎっていた力を取り戻すことが、助けになるに違いありません)。初代教会が絶対的な模範ということではないでしょう。その真似をすればいいわけではありません。彼らにも失敗はありました。しかし、いわば彼らはわたしたちの「長兄」です。彼らと対話し、彼らから学ぶことを通して、わたしたちもイエスに従うように助けられたいと思います。


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