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殉教の教会

 アナバプティストがたどった道は、決して平坦なものではありませんでした。それどころか、常に殉教の危険が待ち構えていました。血まみれの道だったのです。
 彼らの歴史は、宗教改革の最大の暗部であり、また悲劇でもありましたが、しかしまた、最も輝いた、勝利の歴史でもありました。

 

1.殉教者の鑑

 メノナイトやアーミッシュ(アナバプティストの末裔)の家庭には、必ずと言っていいほど『殉教者の鑑』と呼ばれる本がおいてあります。この本には、4011人の、アナバプティストの殉教者の記事が収められています。当時の公的資料、裁判記録、手紙などから殉教の歴史を再現しており、歴史学的にも大変貴重な資料とされています。
 文書に残っているだけでこの数ですから、実際にはもっと殉教者の数が多かったであろうことは言うまでもありません。アナバプティストの殉教者の数は、コンスタンティヌス帝以前のそれよりも、もっと、ずっと多かっただろうと言われています。
 1525年、スイスのカトリックの領域で迫害が始まると、チューリヒの議会(当然プロテスタントです)がそれに倣い、またたくまにその動きはスイス連邦全域を覆いました。ドイツでも、多くの領主がアナバプティストの迫害を決定しました。ヘッセのフィリップだけが、迫害政策に同調しませんでした。

 

2.フェリクス・マンツ

 チューリヒで最初に犠牲になったのはフェリクス・マンツです。1527年1月5日、リマト河での出来事です。マンツは溺殺刑に処せられる直前、ラテン語で聖歌を歌いました。

In manus tuas, domine, commendo spiritum meum.
(主よ、御手の内に、我が魂をゆだねまつる)

歌い終わった後、刑吏はマンツを水に投げ込みました。遺体はひきあげられて、聖ヤコブ教会に埋葬されました。

 

3.ミヒャエル・ザットラー

 1527年、カトリックの手によって、ザットラーは逮捕されました。二ヶ月に及ぶ拷問の後、釘抜きで舌を抜かれ、焼き鏝で体に刻印され、真っ赤に焼かれたやっとこで肉をえぐりとられた後、燃える炎に包まれて処刑されました。彼は舌を抜かれたがために、口で信仰を言い表すことはできませんでしたが、以前兄弟姉妹に約束していた通り、死の瞬間、勝利の印として、両手を天に挙げました。

 

4.ディルク・ヴィレムス

 教皇派の領主につかまったディルクは、獄から脱走する機会を得ました。刑吏が追いかけるのを必死に振りきり、凍った湖の上を走りました。獄で満足に食事が得られなかったためにやせ細った体を支えるのには、氷の厚さは充分でしたが、ぜいたくな食事をしていた刑吏は氷の厚さに比してあまりに重過ぎ、ついに足元の氷が割れてしまいました。
 助けを求める叫び声にディルクは振りかえり、向き直って彼の手を取り助けます。刑吏はディルクを助けたかったのですが、仕事上のことでもあり、彼を再び捕らえて獄に入れます。残虐な拷問の後、彼もまた焚刑に処せられます。1569年のことです。
 この、ディルクの「敵を愛する」という姿勢は、今に至るまで、メノナイトやアーミッシュの中でとても大切にされています。彼をテーマにした銅板画は、当アナバプティズム研究会のホームページの表紙にも使われています。

 

5.スワビア大量虐殺

 スワビアにおいては、アナバプティストに対する迫害政策が最も残虐な形で適用されました。1528年、アナバプティスト惨殺のための特殊部隊が400人構成で派兵されましたが、それでも彼らに対しては数が不足しているということで、すぐにこの部隊は1000人に増員されました。
 帝国憲兵司令官Berthold Aicheleは、スワビアやその他の地方における、この計画の総指揮官でしたが、ついに彼は心砕かれ、畏れにつつまれて倒れてしまいます。ブリクセンでのアナバプティスト処刑が済んだ後、彼はついに諸手を天に挙げ、もう決してアナバプティストを死に追いやりはしないという厳粛な誓いを立て、そしてその誓いを守りました。