今日の一言
信仰のない時代に信仰を生きようとする。それはたしかに狂信以外のなにものでもない。
―――榊原 巌

アナバプティストとは何か?

 「アナ」という言葉は、「再び」という意味です。アナバプティストというのは、「再びバプテスマを授ける人」という意味で、元々は賎称です。この教派がいつから存在したかについては諸説ありますが、一般的には、もともとツヴィングリの弟子であったコンラート・グレーベルらによってはじめられたと伝えられています。グレーベルは、はじめツヴィングリと行動を共にしていたのですが、後に幼児洗礼の問題で対立するようになります。ツヴィングリも、はじめは幼児洗礼に対して懐疑的でしたが、様々な政治的状況もあり、急激な改革を嫌いました。しかし、彼らは幼児洗礼が聖書に書かれていない教理であることを確信するに至り、遂に妥協的なツヴィングリと折り合うところがなく、彼らは独自の群れを形成するに至りました。

 彼らは、当時のキリスト教界が採用していた教会観を根底から揺るがした点に於いて、非常に革新的でした。当時、カトリックであれ宗教改革主流派(プロテスタント)であれ、教会の構成員とは、国家に属する教会に幼児洗礼によって加えられた人々のことを指していましたが、彼らにとって、教会とは、国家の中にいる全ての人間から構成されるのではなく、新生し、キリストの弟子の道を歩む決意をしたものでなくてはなりませんでした。彼らは幼児洗礼の有効性を否定し、悔い改めた者にのみバプテスマを施しました。ルター派や改革派、長老派、カトリックにとってみれば、彼らは幼児洗礼を施した者に再びバプテスマを授ける者でしたので、「アナバプティスト」と彼らを呼んだのです。勿論、当の「アナバプティスト」達にとってみれば、彼らは聖書的に有効なバプテスマを一度限り授けているわけで、この名称は当たらないわけです。彼らはまた、教会の聖さを追い求めました。彼らは信仰による救いを主張した点では他のプロテスタントと変わりませんが、行いのない信仰を無に等しいとして、安っぽい恵み一辺倒の神学ではなく、実を結ぶ信仰を重んじました。マタイ16章と18章で主が言われているとおり、罪を犯した者に対して悔い改めを要求し、これを拒み続けるなら、教会の交わりから追放したのです。彼らの生活態度に関しては、敵対者も一様に賞賛せざるを得ませんでした。

 しかし、彼らの行為は、再洗礼とみなされました。再洗礼は、当時の法律によれば、死刑に値する罪だったのです。それで、彼らは、カトリックにも、プロテスタントにも、大迫害されるのです。非常に多くの人々が、あるいは水に沈められ、あるいは火であぶられて、殺されていきました。『殉教者の鏡』と呼ばれている本の中には、実に4011人の殉教者の記録が収集されています。実際は、その数も、氷山の一角にしか過ぎないでしょう。特にミヒャエル・ザットラーと呼ばれる人の死は印象的です。釘抜きで舌を抜かれ、焼鏝で躰に刻印され、真っ赤に焼かれたやっとこで肉をえぐられたあと、焚殺に処されたのですが、彼は死の瞬間、勝利の印に両手を高く挙げると兄弟姉妹に約束しておいたとおり、両手を高々と挙げながら死んでいったのです。

 そのような迫害と殉教にも彼らは屈することなく、伝道と教会形成に全力を尽くしていきます。やがて、彼らの中から、メノ・シモンズ、ヤコブ・フッターなどがあらわれ、幾つかの群れを形成していきました。

 彼らの流れから出てきた群れとしては、メノナイト、ブレザレンがあります。他にも、バプテストとの関わりは深いものがあります。そして、フッタライト、これは日本でも共同体を形成しています。それから、アーミッシュ、ある意味においてアナバプティストの伝統に最も忠実である群れですが、彼らはペンシルバニア等に勢力を持っています。他にも、幾つかの教派を挙げることができますが、大枠としてはこのようなものです。

(三根)


書評

S.ハワーワス/W.H.ウィリモン著
『旅する神の民』
――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状
教文館

 著者ハワーワスおよびウィリモンは、デューク大学神学部の教授であり、アメリカの主流派教会の一翼を成す合同メソジスト教会の会員である。

 本書は、「キリスト教世界」という言葉に甘んじ、アメリカ文化に対して挑戦するのではなく、むしろ迎合する道を歩み続けているアメリカの教会に対し、主流派・福音派を問わず辛辣な批判を展開する。そして、キリスト者の使命が、「近代社会に福音を適合させることではなく、福音に対して近代社会を適合させていくこと」であるという重大な事実を再確認させる。

 教会が、政治的右翼に迎合するのでもなく左翼に迎合するのでもなく、新しい神の国の政治を実現する共同体であるという主張は、歴史的平和教会(アナバプティスト等)によって古くから言われてきたことであるが、著者はこの主張を、コロニーという比喩を用いて説明する。キリスト者のコロニーとは、世のただなかにあって、世と全く異なる生き方を選ぶ者の共同体であり、異邦人として寄留者として世と関わっていく共同体である。

 このような主張が、主流派の立場から出てきていることは、非常に喜ばしいことである。歴史的平和教会が叫び続けてきた福音の本質というものが、今、最も世俗的な国家のひとつであるアメリカにおいて花開いていることに、神の摂理の偉大さを感じずにはいられない。

 本書には、著者がメソジストであるが故の独特の弱点、たとえば、幼児洗礼をあたかも比較的初期の教会の慣習であり、聖書的なものであるかのように書き出すような部分はある。しかし、そういうことはともかくとして、現代の全てのキリスト者に、私はこの本を読むように心から薦めたい。

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