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今日の一言
私たちの他には誰も聖書を失う者はなく、私たちをおいて他に誰も聖書を再び取り戻すことのできる者はいないのである。
―――Robert W. Jenson


キリスト者の視点で物事を見る

 福音主義を標榜する学生団体である「キリスト者学生会(KGK)」にとって、1997年の全国集会(NC)は、その信仰的立場が厳しく問われる機会となりました。会場である青年の家において、日の丸掲揚・君が代斉唱が求められたのです。激しい議論が、学生と学生の間、学生とKGK主事との間、そしてKGKと青年の家の間でたたかわされました。結果として、KGKは、日の丸・君が代の行事不参加を勝ち得たのでした。このことがきっかけとなり、学生の間に、「社会的」関心が高まってきました。そんな折、先の国会で、3つの重要な法案が可決されました。国旗国歌法、通信傍受法(盗聴法)、そして、ガイドライン法であります。このことへの是非はともかくとして、全ての人に共通して認識されている事実は、日本が右傾化しているというそのことです。

 日本のキリスト教会には、第二次世界大戦時の痛々しい記憶がしみついています。国家が教会に圧力をかけ、そして教会はその圧力に屈しました。現在でもプロテスタント陣営の最大の教派である「日本基督教団」は、国家が教会を統制しやすいように、多様な教派を国家権力の圧力の下に無理矢理一つにまとめた教団です。これはこの上もなく恥ずべきことですが、当時教団統理であった富田満氏は、教団の成立を祝い、伊勢神宮で「神前」に報告したのです。また、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」と題された文書は、太平洋戦争を「日本の聖戦」と規定し、もってアジアのキリスト者に天皇の下での戦争協力を促すという、もはや主に顔向けのできないようなことをしたわけです。このような、胸に突き刺さるような思い出が、「もう過ちは繰り返さない」という教界全体の決意を導いているのは、至極当然のことでありましょう。
 しかしながら、私個人として、非常に気にかかっていることがあります。それは、こうした政治的な領域において、キリスト者の視点で物事を見るということが、あまりにもおろそかにされてはいないかということです。

 「社会問題」に積極性を欠いていた福音主義教会も、ローザンヌ会議などを契機として、積極的に政治等の領域に関わっていくようになりました。信仰と目に見えるものとの不適切な乖離の時代に自ら幕を閉じたことは、全く歓迎されるべきことです。「宣教」や「救い」といった概念は、これまでの狭い理解、すなわち個人の回心のみをとりあげるやりかたから、より聖書的な理解、すなわち神の国という人間の結びつきをとりあげ、社会悪に正面から向かい合い、貧しい人々や虐げられている人々に目を向けるようになりました。これ自体は、全く喜ばしいことです。今日では、福音派も主流派も、様々な問題で足並みをそろえて行動しています。それもまた、全く悪いことであるとは思いません。

 しかし、問題は、このようにして「社会」に教会が関わっていこうとしている今、まさに教会が教会であるというアイデンティティーがあいまいになる傾向が出てきているということです。以前、ジュビリー2000という、カトリック・主流派・福音派・歴史的平和教会が関わっているプロジェクトに関する講演会に出席したことがあります。これは、発展途上国の債務を、先進国に圧力をかけて帳消しにさせようという運動なのですが、実はこの運動、キリスト教界以外にも、労働団体や、他宗教が関わっているのです。そういったなかで、ジュビリー(旧約聖書の「ヨベル」)という名前を運動に冠したことについて、あるカトリックの方がこのような趣旨の発言をされました。「最初は、特に他宗教の方から抵抗があった。しかし、今では特に抵抗の声はあがっていない」。そこで、私はこう発言したのです。「それは良いことかもしれない。しかし、もしかしたら、とても危険なことかもしれないのでは」。私の言わんとすることはこういうことです。私たちが他者から何ら違和感もなく受け入れられる時、もしかしたら相手が変化したのかもしれないが、もしかしたら、変化したのは私たちであるかもしれない、そういうことです。特に福音の価値観は、この世の価値観と全く異なるものなので、福音がこの世と何の摩擦も無しに受け入れられるなど、有り得ないことなのです。もし私たちが何の抵抗も無く世に受け入れられているのなら、あるいはそれこそが私たちが福音を生きていない第一の証拠なのかもしれません。

 聖書は告げます。虐げられた者を自由にし、飢えた者にパンを与え、裸の者に服を着せよと。しかし、聖書はまた次のように告げます。神を神とせよ、と。すべての偶像礼拝や異教や異教的行いを捨て去り、ただ神を神として拝せよ、と。聖書のどこに、神を神とせずにして真の平和が得られるなどと書いてあるのでしょうか。神はそのようなことを教えているのでしょうか。ですから、福音を宣べ伝えるということは、貧しい者にパンを与えることであると同時に、神を神とする生き方を伝えるということです。どちらが欠けても福音ではないのです。
 神が私たちに与えられた使命のただ一方だけを果たし、他方を省みないのならば、それは不従順でありますし、本当の意味において、相手のためにもなりません。宣教は、キリスト者のみの特権です。たとえ他の宗教の人々から批判を受けても、摩擦があっても、私たちは神の御心を成すべきであって、この世と衝突できない「キリスト教」など、福音ではないのです。

 また、日の丸・君が代の問題にしても、キリスト者がこのような問題に関わること自体は、特に批判すべき事柄ではありません。しかしながら、私たちが、いわゆる「左翼」という政治的な立場と自らを同一視してしまうのなら、私たちは福音の基準からまたも逸れてしまうのです。この傾向は特に、主流派の教会によく見られるのですが、日の丸・君が代について反対の立場を採る人々が、しばしばキリスト教倫理と相反する事柄をも左翼的な方々から輸入してきます。例えば、性の秩序の問題に関してそれが言えます。彼らはキリスト者としての道を歩むのでなく、政治的左翼として自らの道を歩んでいるのです。そして、自らのイデオロギーを承認してもらう道具としてのみ聖書を使用するのであって、都合の悪い言葉は「括弧にくく」ってしまうのです。それでいて、自らに従おうとしない人々に「保守的」「右派的」などというレッテルを貼りつけ、その上、自分こそが真に寛容でキリスト教的であるなどと思っているのです。

 さらに、これはほとんど全てのキリスト者が陥っている罠でないかと個人的に危惧しているのは、私たちが「日本人」というアイデンティティーを「キリスト者」というアイデンティティーの前に置いているのではないか、ということです。日の丸・君が代にキリスト者が反対するのはかまいませんが、もし日本人としてではなくキリスト者として語りたいのであれば、明らかに異教的な大韓民国の太極旗についても同じように批判するべきではないでしょうか。フランスの三色旗についてはどうでしょうか。あの三色旗も、非キリスト教的ニュアンスがあるのではないでしょうか。私が昔、ある方に、どうして日本のキリスト者が太極旗に対して闘争を起こさないのかと聞くと、「角が立つから」との答えでした。理解できないわけではありませんが、しかし、彼は「天国人」というアイデンティティーを真剣に受け取っているのか、私には納得のいかない答えでした。
 この世の君は、私たちが気づかないうちに、こっそりとこの世の価値観を私たちに埋め込むのですが、私たちは、あくまでキリスト者として物事を見るように、常に注意しているべきなのです。
(三根)



あとがき

 Restitution、聞きなれない言葉かもしれませんが、これは「原状復帰」だとか「あるべきところにかえる」という意味があります。

 宗教改革の時代、プロテスタントが指向したのはReformationです。これは、現状をどうにか改革しようという意味です。悪いわけではありませんが、物事を根本的に変える力に欠けていますし、歴史においては近視眼的な分析しかできないと思うのです。
 アナバプティストが目指したのは、Restitutionです。あるべきところ、つまり、使徒たちの目指した教会という姿に帰るということです。Reformationでは拠りて立つ歴史的土台があやふやですが、Restitutionは確固たるヴィジョンを持って世にのぞむことができると、私は信じています。

 「使徒たちの教会に帰れ」などというと、すぐに「非歴史的な主張だ」だとかいうように批判する方々がおられます。私は、歴史を無視してよいなどと主張したことは一度もありません。キリスト者の神は歴史の主であります。また、伝統を全て廃するべきだとも言いません。ただ、伝統を神とするその姿勢を排しているのです。

 教会の根本的な刷新とは、私たちが奇をてらった何かを衒学的なやりかたで発明することではなく、既に示されたキリストの足跡に倣うことによってなされるのではないでしょうか。
 私たちがキリストの内にとどまろうとすること、キリストの視点から物事をとらえようとすること、それがRestitutionなのです。そういう思いを込めてつけたこの誌名、私にとっても、大きなチャレンジであります。
(三根)

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