今日の一言
  私たちの文化で圧倒的に支持されている理想主義的な平等主義から見れば、「女性の果たすべき役割」は馬鹿げたことであり田舎者の言うことかもしれない。さらには「従属」という言葉も侮辱に聞こえるかもしれない。しかし、もしこの平等主義が(「神から見て」あるいは「長期的な社会経験から見て」)実は悪魔的であり、無慈悲であり、人格を破壊するものであり、創造を汚すものであり、そして実現不可能なものであるとしたらどうなるか。「二十世紀の西欧人」を演ずるには、この現代の神話を受け入れ、お互いに従属しあうことのキリスト論的基礎として使徒が語ったことを、黙殺すべきなのか。
―――ジョン・ハワード・ヨーダー


律法主義とは何か?

 絶対平和主義が律法主義的であるという主張は、かなり古典的なもののようです。なるほどそれは限りなく正しいに違いない。しかし、もしヒトラーのような人間が現れてきたら、あるいはあなたの愛する人が襲われたなら、どうするかね。こんな時、我々は律法主義的に振る舞えるのだろうか、そういうことを言いたいようです。

 他にも律法主義という言葉が出てくる場面は数多くあります。どのような場合でも、意味するところは酷似しています。律法ばかりを守っていてはお堅い倫理主義に陥ってしまう、個々の状況に適切に対処することはできないだろう、云々。そしてわたちたちの多くがこう考えているのです。なるほど、律法主義もよくないし、かといって無律法主義、何も基準がないのもまたよくない。要はこの中間を歩んで、バランスの取れた人間になることが肝要なのだ。

 もちろんこれらの議論には、様々な考慮すべき論点があるのですが、しかし多くの人は、少なくとも「律法主義」に関して、履き違えた理解をしているように思えます。

 福音書の中において、イエスは多くの場面で律法学者と対決しています。マタイ23章のような箇所を読むだけで、イエスの律法学者に対する対決姿勢は充分伝わってくるはずです。問題は、イエスが律法学者の何に対して反対していたか、また、イエスの律法に対する姿勢はどのようなものだったかということです。

 イエスが律法学者に反対したその最大の理由は、偽善性です。見せかけの信仰でした。外から見れば立派な人に見えたし、周囲からも尊敬を集めていました。律法を文字通り守っていたからです。しかし、それには心が伴っていませんでした。すなわち、律法を文字通り守っていさえすれば、神に受け入れられる、という思い違いをしていたのです。

 イエスの律法解釈の手段は、律法学者と大きく異なっていました。律法が書かれた最初の目的に常に立ち帰りました。律法が「殺してはならない」といったときに、それは憎しみ合うことを禁じていたのです。「姦淫してはならない」といったときに、みだらな心を抱かないようにといっていたのです。「目には目で、歯には歯で」といったときに、それは際限のない復讐を、限定的なものにしようとしていたのです。つまりは、イエスは律法の本来の意図を明らかにしたのです。だからイエスは、律法を律法学者と異なる手段で解釈しながら、矛盾を感じずに「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と言えたのです。

 要するに、イエスが批判した「律法主義」とは、生半可な律法理解、生半可な生活態度でした。文字に書かれたことだけ守っていれば、心の中身はどうでもよい、それが律法主義の正体だったのです。イエスはこれを不充分とし、律法を徹底化させたのです。単に字面だけを守るのではなく、律法を心から守ること、これがイエスの主張したことでした。

(三根 翼)


初代教会の宣教、転載許可下りる

 アラン・クライダー氏の御厚意により、「初代教会の宣教」を、当研究会のWebページ上に転載することを許可していただきました。初代教会の生き生きとした信仰がよくわかる好著です。ぜひ、お読みになってください。ホームページの「アーカイブ」から読むことができます。


あとがき

 現在、同時進行で色々なテーマを扱っているのですが、どうしてもこういう基本的な事柄に関する合意がなければ、後に続く記事には意味がないと思い、とりあえずこれを最初にもってきました。

 あるイメージだけを持ってぼんやりと使っている言葉、そういうものはないでしょうか。そして、そういうイメージが、わたしたちの生活態度を支配していないでしょうか。

 自分も、常に気をつけていなければいけないと思わされます。

(三根 翼)


 

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