第2章 初代教会の宣教
初代教会の理解についていろいろな意見の違いがあっても、これが急速に発展した教会であったと見る点では、ほとんど皆が一致しています。30年ごとに50万ずつ増えていったことはすでに述べました。ではその宣教はどのように行なわれたのでしょうか。
宣教に携わった人たち
使徒時代のクリスチャンは、十二使徒が、当時知られていたすべての国に、組織的に福音を伝え、大宣教命令(マタイ28:30〜31)は成就したと理解しました。使徒的な教会のネットワークは確立したのだから、次の世代はこの土台の上に新しい教会をつくり、新しい回心者を集めればいいのです。宣教は神が始められた仕事、神が責任を取ってくださる。われわれが宣教の方策を考えたり、神学化したりする必要はない。神が働いてくださるからです。宣教は人間が計画を立てて推進する事業ではなく、神の力により自然発生的に、起こるできごとです。そういうふうに考えて、教会の働きは始まりました。現代は宣教についての研究所があり、多くの人がこの問題を研究しています。コンピューターが宣教の戦略を教えてくれます。しかし初代教会には宣教団体もなく、組織的な大伝道集会もありませんでした。公衆の前で説教をしたかもしれないことを示唆する記録はあります。新約聖書でも、パウロやペテロが、集まってきた人々の前で説教したことが記されています。しかし64年からは迫害が始まり、公に大衆の前で説教することはできなくなりました。わたしたちの手もとに残っている文書では、大衆伝道的な説教が行なわれたことを示すものはありません。初代教会の宣教はごく目立たない、自然な運動でした。では、誰がどのようにキリスト教を伝えたのでしょう。
旅するクリスチャン
ある人は宣教の目的を持って旅行をしました。リヨンの殉教者アレクサンドロスのことは177年出版の記録に残っています。彼はトルコのフリュギアの医者でしたが、いわば宣教師のような働きをしました。
[アレクサンドロスは]ゴールの各地で多くの年月を過ごした。そして彼は神の愛と大胆なみことばの説教で、ほとんどすべての人に知られていた。事実彼は使徒たちのカリスマにあずかっていたからである。(『リヨンの殉教者たち』 下線は著者)
彼はゴール地方、今のフランスで活躍しました。トルコからゴールまで行きました。当時の旅行は困難なものでした。しかし旅をしながら彼は「神の愛」を示し、人々を助け、「説教」をしました。「使徒たちのカリスマにあずかっていた」と記されています。使徒たちに与えられたのと同じような、聖霊の賜物をいただいて説教をしたということです。
しかし、特に宣教師としてではなく、ローマ帝国の中を普通に旅していたクリスチャンが、多くの場合宣教に当たりました。人々は仕事を求めて町から町へと移動していました。仕事で滞在した町で、そこの教会を助けるのでした。旅人、商人、囚人、奴隷、一般の労働者、さまざまな人々が宣教に携わりました。オーリゲネース(2世紀から3世紀にかけて活躍した教会教父)は、次のように言います。「クリスチャンのいない町はなくなった。誰かがある町に到着すると必ずキリストの教えを語り始める。一生懸命教え、信仰に導くまでそこに留まっている」(『ケルソス論駁』)。そういう人たちの具体的な名前は分かりません。ときどき、そのような人たちに教会が名前をつけることもありましたが、たいてい偽名でした。いずれにしても、この人たちは、われわれが考えるような宣教の専門家ではありませんでした。司教でも長老でもない、神学教育を受けた人でもない、普通の信者が宣教の活動をしました。
隣人として住むクリスチャン
またクリスチャンは、自分が住んでいるその場所で宣教しました。彼らは真理について、新しい生命について証しをしました。信仰によってその人の生活が変わったということが証しでした。下層社会出身のクリスチャンもたくさんいました。一生懸命働かなければならない人たちです。彼らは働きながら自分の信仰を隣人に伝えました。仕事場や隣り近所の付き合いを通して、キリスト教は広まりました。高層の建物の場合、貧しい人はたいてい上の階に住んでいました。6階まで階段を上ったり下りたりします。上まで水を運ぶとき、買い物に行くとき、洗濯に行くとき、途中でどれだけの隣人に会うか分かりません。そういう人たちとの出会いを、クリスチャンは大切にしました。クリスチャンは隣人として住み、その生活の中で信仰を証ししました。
異教徒の批判者にとってクリスチャンの存在は面白くありません。彼らはキリスト教を批判して言いました。クリスチャンは自分たちだけが正しい生活をしている気でいるが、実際にどう生きていくか、とにかく見てやろうじゃないか。ケルソス(2世紀後半のキリスト教批判者)は次のように言います。「クリスチャンの集まりには毛糸商人、靴職人、洗濯屋、あらゆる種類の人達がいる。だが無学で田舎者だ。知恵のある人の前では何も言えないに決まっている。子供や無知な女をつかまえては、その連中が感心するような言葉を語っているだけだ」(オーリゲネース『ケルソス論駁』 3. 55より)。クリスチャンに対する反感があったということです。一般の人々は、集会で何が行なわれているかよく理解できませんでした。ただ、普通の人々に力を与える何かが、クリスチャンの間に起こっているのは、確かでした。その力についてクリスチャンは証ししました。
女性の働き
初代教会では女性が圧倒的に多数を占めていました。何%であるかをはっきり言うことはできません。しかし女性がクリスチャンになることによって自由を見い出したことは確かです。彼女らはキリスト教共同体の中で、宣教のために重要な役割を果たしました。新約聖書を見ると、女性が教会のリーダーとして活躍した様子がよく分かります。異教徒であるアレクサンドリアのクレーメンスは言いました。「キリスト教が家々の中心にまで入っていったのは、女性を通してであった。そしてそこには何のスキャンダルもなかった」。ドイツの宣教学者ブロックスも、もし女性の信徒がいなかったならば、宣教の働きは非常にゆっくりしたものになっていただろう、と言っています(Brox, "Zur christilischen Mission")。女性は、人々の話によく耳を傾け、細心の注意を払って質問に答えようとするものだ、ということも出ています(『使徒の教え』 3. 5)。女性についての記録はあまり多く残されてはいませんが、初代教会の歴史を見ると、女性が積極的に活躍していった様子がうかがわれます。そういうわけで、キリスト教は職場で、また隣人との付き合いの中で、そして女性の積極的な働きを通して広がりました。
キリスト教の何に魅かれたか
しかし、では、何が人々をキリスト教信仰に引き付けたのでしょうか。ここで思い出しておきたいのは、初代教会はさまざまな障害にもかかわらず、成長したということです。クリスチャンになることは苦難を覚悟するということでした。大迫害がいつもあったわけではありませんが、周囲からは絶えず圧迫を受けていました。家の教会が攻撃を受け、建物が焼き打ちに遭う様子をオーリゲネースは記録に残しています(『マタイ注解24: 9〜10』)。それにもかかわらず、成長したのはなぜだったのか。その宣教の内容はどんなものだったのか。さまざまなことが考えられます。
キリスト教のメッセージ
クリスチャンはある程度まで自由に自分の信仰について語ることができました。彼らは、神は唯一であると証言しました。ローマの世界にあるような多神教の神々ではなく、唯一の神がいらっしゃること、その神が御子イエスを救い主として世に遣わされたこと、そしてイエスこそユダヤ人が待ち望んでいた救いの成就であることを語りました。人はこのイエスにどう応えるべきかを示しました。クリスチャンは、自分がイエスによって自由を与えられたので、それで新しい生き方ができるのだと証ししました。神の家族として共に生きる生活を通して、その新しい生き方を具体的に示しました。
しかし、一般の信徒は、信仰の秘義とか、救済論、キリスト論などの神学的なことは語りませんでした。聖餐式、洗礼式などの儀式についても語ることを許されていませんでした。これらは、真剣に道を求める人に、個人的なカテキズム(信仰入門の教え)の中で説明されました。自分の信仰についても、軽々しく他の人に話すのではなく、特別に秘密めかすわけでもないのですが、たいへんに慎重だったと言えます。現代の西欧では誰でも何でも自由に知ることができます。ところが多くの人は関心を持ちません。初代教会では多くのことが明らかにされませんでした。むしろそのために人々が興味を持ったという面があったかもしれません。(伝道には大宣伝よりもむしろ「秘密」が必要ということでしょうか)。いずれにせよクリスチャンはそのようにして信仰について語り、その信仰を生き、信仰に殉じました。
クリスチャンの生活
クリスチャンがほかの人と違う生き方をしていることは明らかでした。それが周囲の人々をキリスト教に引き付けました。ユスティノスの『第一弁証論』を見ますと、その頃のクリスチャンがどう生きていたか、それがどのようにして証しになったかが分かります。これは150年ごろ書かれたもので、弁証論というのは、一般にクリスチャンが何を信じているかを解き明かす書物です。
クリスチャンの隣人の首尾一貫した生活という証しに動かされて、暴力や強圧的な生き方から離れていった人たちの実例を、我々は数多く示すことができる。その人たちはクリスチャンの知人が、人から傷つけられるときも奇妙なほどの忍耐を持っているのを見たのだ。またクリスチャンが自分たちとどんな商売の仕方をするのかを身をもって知っていた。キリストが教えられたように生活していない人は、たとえその教えを口にしていても、事実はクリスチャンでないことを、知らなければならない。(ユスティノス『第一弁証論』 16)
クリスチャンは暴力的、強圧的な生き方から離れました。打たれたり傷つけられたりしても、打ち返したり仕返ししたりしません。人から非難されるような商売のやり方はしない。これらはみなイエス・キリストの教えの具体的な表現でした。イエス・キリストの教えに従って生活しないならばクリスチャンではない、と互いに警告し合い、励まし合いました。他の人がわれわれの生き方の中に神の愛を見ることができるように生活しよう、と言うのです。教会の中に平和があるだろうか。平和について人に語るなら、自分たち自身の間に平和がなければならない。もし互いに愛し合っていきていないなら、敵を愛することが大切だといくら人に語っても、誰が信じるだろう。クリスチャンには首尾一貫した生き方が求められました。一貫性こそ福音が真実であることを証しするものだったからです。それによって人々は福音に、新しい生活に招かれたのです。目に見えるライフスタイルが、宣教でした。
尊敬されている人の回心
信徒になったからといって、すぐに出かけて行って、わたしは回心しましたと言ってまわったわけではありません。しかしまわりの人たちが、あの人は何か変わったと気づきます。たとえば、このごろ穏やかな優しい人になったがどうしたのだろうと思ったら、クリスチャンになっていた、というわけです。「このカイウス・セイウスはいい人だった。ところがこの人も、クリスチャンになってしまった」と噂します(テルトゥリアーヌス 『弁証論』 3. 1)。あの知恵ある人が急にクリスチャンになった。すると、その人を尊敬していた人たちもクリスチャンになる、ということがよくありました。注意深くキリスト教のことを調べていた人だったが、バプテスマを受ける決心をした。そういうことがあると、それが力強い噂となって広まるのです。尊敬される人たちが回心した結果、キリスト教の運動自体に対する信用が増していきました。
キリスト教の祈り
初代教会が、この世の人たち全体の回心を求めて祈ったかどうか、分かりません。しかしクリスチャンが近隣の人々のために祈ったことを示す証拠はたくさんあります。隣人との付き合いを大切にして生活し、日々触れ合い、喜びも苦しみも共にしていました。祈りを必要とする隣人のために、クリスチャンは祈りました。子供が病気になると、その子のために祈ってくれる人を連れて来て上げよう、とクリスチャンは言います。ある人が悪霊につかれていると感じると、そのために祈ってくれる人を紹介します。この時代、人々は運命や悪霊の力が自分たちを支配していると考えていました。そういう人々にキリスト教は自由を与えました。運命や悪霊からの解放を祈りました。また祈りは生活の一部でした。
311年、ゾロアスター教の人が、エジプトのクリスチャンたちの祈る姿を見て驚いた、という記録があります。ある家族が部屋に集まって、手を挙げて祈っていたというのです。どうしてそのような祈り方をするのかということから、この人は家の主人と祈りについて話し合うようになりました。礼拝について話し合っているうちに、このゾロアスター教徒はキリスト教の信仰に導かれ、バプテスマを受けたと言うのです。これは貴重な報告です。祈りがいかに宣教に重要な役割を果たすかを明らかにしています。
クリスチャンの愛の行動
クリスチャンは、神が自分たちを愛しておられることを信じていました。その神の愛が、自分たちの行動を通して人々に表わされると信じました。クリスチャン同士の愛、また隣人に対するクリスチャンの愛を見て、人々はキリスト教に魅かれました。
パコミウスは身分の低いエジプト人でした。311年、ローマに徴兵され、所属する部隊と共に町から町へと移動していました。ナイル河をくだってテーベの町に来ました。逃亡するといけないということで、徴募兵たちは獄に閉じこめられました。この町のクリスチャンは兵士たちのことを聞きました。きっと不安でいるだろうし、お腹もすいているに違いない、とクリスチャンは思いました。記録によると、その夜、クリスチャンは食料や飲み物やその他の必要なものを持って、兵士の所に行ったのです。パコミウスは、この親切な人たちは誰ですかとたずねます。クリスチャンです。誰に対しても、愛を行なう人です、という答えが返ってきました。クリスチャンとは何ですか、と聞きます。キリストの名を携えている人たちです。キリストは神のひとり子です。そして天と地と人間をお創りになった神に望みを置いています。それですべての人に愛を示すのです。そう聞かされて、パコミウスの心は熱くなります。神に対する恐れと喜びが彼の心にわき起こります。パコミウスは、親切なクリスチャンの行動を通して、恵みの神を知ることができました。自分たちが必要を感じたとき、恵み深い神が具体的に答えてくださったと確信しました。彼は軍隊を去り、クリスチャンの群れに加わり、エジプトの修道院運動のリーダーになりました(Armand Veilleux, Pachomian Koinonia, 1: The Life of Saint Pachomius and his Disciples)。