はじめに
キュプリアーヌスは3世紀の北アフリカの教会指導者です。カルタゴの名門の家に生まれました。物質的に豊かな、恵まれた環境に育ちました。哲学と法律のすぐれた教育を受け、この重要な都市でよく知られる人物となりました。人々から尊敬され、快適な生活をしていました。すべてのものを持っていたのですが、しかし心には満足がありませんでした。悩みと暗闇に閉ざされていた、富の奴隷だったと彼は後に述懐しています。
あるとき、ひとりの年老いたキリスト教伝道者に出会います。キリスト教の話を聞き、富に対してまったく違った考え方をしている人々を知ります。その人たちは下層社会に生きていましたが、自由を経験していました。礼儀正しい人々でした。ときには、ひどい迫害を受けることもありました。このキリスト教に、キュプリアーヌスは魅かれるものを感じました。彼は自問しました。わたしにも回心は可能だろうか。自分は変われるか。罪の力を充分に知っていました。古い生活習慣が体にしみついていました。ぜいたくな食事、華美な衣装、そういうものを棄てて簡素な生活に耐えられるか。社会の底辺の人々と同じ生活ができるか。迫害されて、死と向かい合うことができるか。
紀元246年、彼はバプテスマを受ける決心をします。組織的にキリスト教の信仰を学び、キリスト教的な生活の訓練を経て、イースターにバプテスマを受けました。水をくぐったとき、新しい生命を与えられることを経験しました。聖霊の働きを通して神の息吹を体験しました。新しい人とされました。今まで難しいと思っていたことが、聖霊の力によってできると思うようになりました(キュプリアーヌス『書簡1』、またポンティウス『キュプリアーヌスの生涯』を参照)。
キュプリアーヌスに起こったことをまとめると、次のようになります。バプテスマを受けて汚れが洗い清められ、新しい人間として誕生しました。かつての自分が死に、新しい生命を与えられたということです。また神の光に照らされて新しい生き方を示され、さらに聖霊の力をいただいてその新しい生き方を実践できるようになりました。それは二つの面で表現されます。
1.自分の物質主義に直面し、財産を売って貧しい人々に分配しました。ぜいたくな衣服を脱ぎすて質素な衣服をまとうようになりました。
2.社会的な交わりのグループが変わりました。底辺の人々と交わりが持てるようになり、その仲間になるのは危険だと思っていた人たち、噂の的になっていた人たちの中に、真実の生命を見い出したのです。キュプリアーヌスはバプテスマの2年後カルタゴの司教に任命され、10年後には迫害に会い、ローマの官憲に首をはねられて死を迎えました。
キュプリアーヌスはわたしたちに何を教えているのでしょうか。彼は初代教会の人々の考え方に共鳴した人でした。初代教会の生き方に魅かれました。しかし自分は彼らのように生きることはできないと思っていました。その彼が、バプテスマを受け、神の力に助けられて、新しい生き方ができるようになりました。それまでの生き方から離れ、社会的な拘束から解放され、聖なるものに向かって自由にされました。イエス・キリストの教えに従って生きることが、できるようになったのです。
キュプリアーヌスは生き生きした初代教会の信仰を示す一つの典型です。では、彼のような人物を生み出したその初代教会とはどんな特徴を持つ教会だったのか、初代教会の宣教とはどのようなものであったのか、そこからわたしたちは何を学ぶことができるかを、これから見ていきたいと思います。
それにしても、遠い時代のことについて、あまり身近とは思えない教会について学ぶことに、どんな意味があるのでしょうか。いくつかのことが考えられます。
―新約聖書の時代に近い 初代教会の初期の人々は、イエスのことや、誕生して間もない教会のことをよく覚えている人たちでした。キリスト教の伝統がまだ形成されていませんから、新約聖書の空気をよく反映している時代でした。社会状況も新約聖書の時代によく似ていました。もちろん、神学的にいえば、初代教会の文書がわたしたちにとって規範的な勝ちを持つとは言えません。あくまでも権威を持つのは新約聖書です。しかし初代教会が特別に新鮮な言葉をわたしたちに語りかけているのは確かです。18世紀のメソディスト運動の創始者だったジョン・ウェスレーは、初代教会こそ本当のキリスト教の時代であった、と言いました。謙虚でやさしい愛に満ちた時代、実際にイエス・キリストの精神を忠実に実践した時代。しかし、信仰と豊かな力に満ちたこの時代は、312年に終わってしまった、と嘆いています。つまり、キリスト教が合法化されたときに、教会は決定的に新約聖書から離れた、とウェスレーは言うのです。
―教会刷新運動のモデルとなる 16世紀のアナバプテストは、部分的な「教会の改革」ではなく、徹底的な「教会の回復」を求めました。初代教会に帰れ、というのが彼らのモットーだったと言っていいでしょう。イスラエルの預言者は絶えず「出エジプト」のできごとに戻るように訴え、クリスチャンはイエス・キリストという原点に帰ることが、教会の活力をよみがえらせる道であると信じました。アナバプテストは初代教会の生き方の中に、親しい交わりとしての教会、イエスに従う弟子の教会、迫害されながらも平和を生きるクリスチャンの姿を見たのです。アナバプテストから何かを学ぶとするならば、初代教会からこそ学ぶべきでしょう。
―対話の基盤が与えられる しかし分派的な孤立ではなく、さまざまな教派の人たちとの真剣な対話が大切です。そのときに、初代教会は話し合いのための共通の基盤を与えてくれます。伝統が固まる前の教会がどうであったかを、いろいろな教派の人たちと一緒に学ぶのです。たとえば幼児洗礼について意見の違いがあります。そのとき、これは実際に、いつごろ、どのようにして始まったかを一緒に学ぶならば、そこに対話が成立し、共通の理解に近づく道が開けます。今はまさにそのような協力関係が必要な時代と言えましょう。
―世俗的な現代の西欧にとって重要 西欧はキリスト教が主流の社会とこれまで考えられてきました。しかし教会は今、あまり影響力を持っていません。わたしはイギリスに住んでいますが、このいわゆるキリスト教国で教会に行くのは人口の9%に過ぎません。すばらしいキリスト教の文化遺産があり、人々は讃美歌を歌い、女王はイギリス国教会の首長ですが、世俗化が進んでいるのです。これについて二つの見方ができます。一つは、西欧でキリスト教は没落してしまったのは恐ろしいことだ、というものです。一方、ケンブリッジの歴史学者バタフィールドによれば、今は、過去15世紀に見ることもできなかったような、最も重要な時代、「心がわくわくする」時代です。自分にとって都合がいいからクリスチャンになるのではない。強制されてクリスチャンになるのでもない。今はまさに初代教会の状況に戻っていると言うのです(『キリスト教と歴史』)。したがって彼らの姿を学ぶことにより、今わたしたちはどうすればいいかを知ることができます。
―教会は西欧だけのものではない 初代教会は西欧の教会を生み出しましたが、教会は西欧だけのものではありません。キュプリアーヌスはアフリカ人でした。初代教会の主要な著者たち、神学者たちはアジアの出身です。シリアや小アジア地方の人たちでした。もちろん西欧の思想家もいます。しかし初代教会は、当時のあらゆる所から人々が集まっていたのです。世界のどこに住んでいても、すべての信徒が共通の基盤に立っていました。初代教会の遺産は全世界のものです。
―宣教学的に重要 厳しい迫害を受けたにもかかわらず、伝道を妨げる要素が数多くあったにもかかわらず、初代教会は驚くべき速さで広がっていきました。すべてのクリスチャンは、自分が迫害されて死ぬかもしれないと知っていました。それでも教会は大きくなりました。30年毎に50万人ずつ増えたと言われています。312年頃には、ローマ帝国のほぼ5〜8%がクリスチャンになっていました(Ramsay MacMullen, Christianizing the Roman Empire)。その成長の秘訣はどこにあったのでしょうか。宣教という面からも初代教会は重要なケーススタディを提供します。
初代教会という言葉は、人によって違った意味に用いられることがありますので、整理しておいたほうがいいと思います。そして、この講義ではどの意味で使うかを明らかにしておくべきでしょう。
―新約聖書の時代の教会 多くの人は、新約聖書の最後の文書が書かれたとき(ほぼ紀元100年)までの教会、という意味で初代教会という言葉を使います。原始教会という言葉も使われます。ただ、これだとあまりにも狭い意味になってしまう恐れがあるかもしれません。
―迫害された教会 312年にローマ帝国のコンスタンティーヌス帝がキリスト教に回心するまでの教会、という意味です。それまでは教会は迫害されていましたが、このあとは、皇帝によってキリスト教が奨励され、あるいは強制されるようになります。重要な区分ですが、これだけだと、その後の教会との比較を充分に行なうことができません。
―未成熟な時代の教会 キリスト教の協議が完全に定着していない時代の教会。451年のカルケドン会議でキリスト教の主要な教義が大体確立するわけですが、それまでの、さまざまな神学論争で揺れていた時代の教会ということになります。しかし教理や神学だけでなく、教会の生活を、もっと問題にする必要があるでしょう。
―宣教の教会 初代教会は宣教の教会であったとわたしは見たいのです。この場合、はっきりした期間を決めることは難しいのですが、キリスト教が宣教の熱意に燃えていた時代の教会、と言ってもいいでしょう。とすると、いわゆるChristendom 「キリスト教社会」という概念の確立する前の教会となります。キリスト教がローマ帝国の国教になったとき、熱烈な宣教は行なわれなくなるからです。わたしとしてはこの理解に基づいて講義を進めます。
三つの時代区分を考えると分かりやすいでしょう。
1.十字架からコンスタンティーヌス帝の改宗まで。
2.312年のコンスタンティーヌス帝の改宗から392年のキリスト教国教化まで。
3.テオドシウス帝が392年にキリスト教を国教化したとき以後。312年まで教会は迫害されました。ほとんどの迫害は局所的、散発的でしたが、ときどき帝国全体にわたる大迫害がありました。しかしその時代に、迫害にもかかわらず活発な宣教が行なわれました。
312年以後、キリスト教は急速に発展します。教会に行くことが魅力的なこととされます。けれどもこの時代にはまだキリスト教は強制されません。ユダヤ教徒や熱狂的な異教徒の存在は許されました。
392年のキリスト教国教化の頃になると、それまで人口の48%だったクリスチャンが96%にまでなります。キリスト教が社会を支配します。すべての人がクリスチャンでなければならない、と法律で規定される社会になったのです。クリスチャンでない人は反逆者になります。もっとも、多くの人が名目だけのクリスチャンでした。忠実に教会に行ったわけではないのですが、嬰児には洗礼を授けました。生きたクリスチャンは少なかったのです。このときから宣教は行なわれなくなりました。