今日の一言
イエスが、しかも十字架につけられたイエスが、われわれの主となる時、まさにその時、イエスはわれわれの救い主となることができる。
―――ノーマン・クラウス


キリスト者はコンビニでレジが打てるか?

 私たちは、食べます。食べなければ生きていくことができません。食べるためには、働きます。働かない者は、食を得るにふさわしくありません(Uテサロニケ3:10)。ですから、私たちが働くのは、当然のことです。
 ところで、本誌の読者層は、今のところ学生が多いのですが、学生にとって典型的なアルバイト先の一つに、コンビニエンスストアがあります。今日は、このコンビニを取り上げることから、キリスト者の生きるべき道について考えていきたいと思います。

 「キリスト者はコンビニでレジが打てるか」。非常に奇妙な題に感じられるかもしれません。働くことのどこが悪いのでしょう。レジを打ち、お金を扱うことのどこが悪いのでしょう。しかしながら、もしコンビニであなたがレジを打つ場面を想像したら、私の言わんとすることがわかるかもしれません。例えば、明らかに未婚であるとあなたにわかるカップルが、コンドームをレジに出したとします。あるいは、スーツ姿に身を固めたビジネスマンが、卑猥な雑誌をレジに放ってきます。私が取り扱おうとしているのは、このような問題です。果たして、キリスト者は、レジに立ち、彼らの要求を満たすことができるのでしょうか?

 キリスト者は、姦淫してはならないと命じられています。その言葉は鋭く、イエスによれば、姦淫することを心に思うだけで、心の中で姦淫を犯したとされます(マタイ5:27-32)。また、別の箇所では、いかなる人に対してであれ、他人につまづきを与えてはならないと厳しく命じられています(マタイ18:6)。そうであれば、どうしてイエスを主と仰ぐ者が、彼らに対して罪を犯させることを是認できると言うのでしょうか?
 しかし、これに対して、様々な反論があるかもしれません。それでは、予想されるいくつかの反論の中から、二つを選んで答えていきたいと思います。

 1.職業倫理
 職業倫理という考え方があります。たとえば、裁判官は個人的見解や信条、信仰などによってでなく、法律によって人を裁かなければなりません。裁判官が何を正しいとするかなど、さして問題ではないのです。また、議長は、議決に対し、何が正しいと信じるかに関わり無く、承認のサインをしなければならない場合があります。その他、様々な職業には、信仰や良心と関わり無くしなければならないとされていることが往々にしてあるものです。
 沖縄県の大田前知事は、職業倫理の観点からすれば、おそらくは失格者となるでしょう。彼は、その職に就く者として当然期待されていた、米軍の土地使用権の更新のための署名を断りました。
 一方、自身はカトリックの信仰を持っていたとされる大平元首相は、まさに職業倫理の観点から靖国神社に参拝したのです。
 また、権威から命じられたことを拒否するという行動は、聖書のうちにその例をたくさん見ることが出来ます。神を恐れていたヘブル人の助産婦たちは、ファラオの命に従わず、生まれてきた子どもたちの命を救いました(出エジプト1:16-21)。ダニエルは、偶像を崇拝せよとの命令を無視し、殉教の危険を犯してでも神に従いました(ダニエル3章)。これらの行動は、賞賛されるものとして聖書の中に出てくるのです。
 してみると、職業倫理をイエスの倫理の前に置く態度は、イエスを本当に主としているのかを疑わしくさせます。世の要求してくる倫理は、それがいかなるものであるにせよ、キリスト者にとってキリストの上に置くものではないのです。

 2.責任
 私たちは、世に住んでいます。そして、世の恩恵を受けています。ですから、世に対して何らかの貢献をするべきであるという考え方があります。もちろん、私たちが、果たすべき勤めを果たすのはよいことです。キリスト者はカエサルに対してさえ税金を納めるべきなのです(マタイ22:21)。
 それでは、です。私たちが、コンビニを利用して買い物をするとします。すると、私たちの経済生活は、コンビニにその一部を負っているわけです。それでは、コンビニに支えられている者の一人として、何らかの責任がコンビニに対してあるのではないか、あるいは、コンビニの経済活動の一部が罪によって支えられているからといって、私たちが何か責めることができるのか、といった問題が突き付けられることがあります。

 これに関しては、初代教会が突き当たった問題とそれに対するパウロの答えが参考になるでしょう。コリントの教会は、この世と教会との境界線をどこに引くかで揺れていました。もし、私たちがキリスト者でもなく、不品行な者や偶像を礼拝する者と経済的なやりとりをしないとしたなら、私たちはおそらくこの世界から出て行かなくてはならないでしょう(Tコリント5:10)。しかしながら、私たちは彼らの行いにあずかる必要は全く無いのです。単純なことを繰り返さなければなりませんが、罪を犯すことは、私たちの務めではないのです。迫害に疲れ切ったキリスト者を励ますため、ヘブル人への手紙の著者は、諸々の信仰の模範をあげた後、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことはありません」と絶叫しました(12:4)。それ以外のことに関しては、神が責任をとられるのです。私たちに命じられていることは、ただイエスの足跡に倣うことであって、それ以外のことではないのです。私たちは、そのことにより、世からそしられるかもしれません。しかし、そのそしりこそ、私たちが預言者に連なる道であり、最大級の栄誉なのです(マタイ5:11,12)。
(三根)

書評

J.H.ヨーダ―著
『イエスの政治』
――聖書的リアリズムと現代社会倫理
新教出版社

 私は、もう何度もこの本の書評を書いた。それは、一部には、私があまり多くの種類の本を読まないという理由があるだろうが、本書こそ、混迷する日本のキリスト教界にもっとも薦めるに値する本の一つであるという確信を抱いているからでもある。

 本書は、題から創造されるような、ただイエスと政治との関わりを取り上げたような本ではない。確かに、ヨーダーは、絶対平和主義を貫く平和教会の神学者として、本書が書かれた当時の、ベトナム戦争にのめりこむアメリカ社会に対し、「神の国」の中における政治学を提示して挑戦するといった点において、政治的なメッセージ性が込められている。しかし、ヨーダーは、より深い次元では、主流を占めるキリスト教神学がこれまで一貫してイエスの倫理を自らの生活の規範として受け取っていないという事実に対し、率直に批判を突きつけているのである。

 ヨーダーの議論は、非常に説得的であり、また信仰的にも有益なものの見方を身につけることができる。イエスの言葉をどこまでも自分に関わりのあるものとして真摯に捉え、そこに生きていく勇気を与えてくれる。

 ただ、本書の4章、旧約聖書を扱った箇所に関して言えば、彼は充分に説得的な意見を述べているとは言えない。旧約の戦争に関する倫理を扱う上では、本書はさしたる貢献をしていないように思える。その点は、我々に課せられた課題であると思う。
(三根)

あとがき

 文体が、第1号からごちゃ混ぜになっています。論文調と、話口調が一つのページに並んでいるわけです。これは、機関紙としては奇妙なことだと私には思われるのですが、しかし、当面このままにしておきたいと思います。それぞれの良さがあると思うからです。

 「キリスト者はコンビニでレジが打てるか?」は、ずっと昔から書きたかった話題です。キリスト教倫理における複雑な問題を、身近なできごとから易しく説いていきたいという構想があったからです。時間的な都合もあり、満足のいく仕上がりになったかは疑問ですが、とりあえず、とっかかりにはなったと思っています。なにせ、生活とかけ離れた神学は、アナバプティストの嫌うものだったわけで、これからも、単に知識を追い求めて高慢になるのではなく、常に生き方を問うていく記事を書きたいと思います。
(三根)


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