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第4章 自由に生きるクリスチャン

 初代教会にとって、クリスチャンになることは新しい人種となること、新しい社会秩序に属するということでした。国境を超えた新しい国際的な世界に属するということでした。しかしクリスチャンはまったく新しい生き方をする人たちでもありました。そして周囲の社会にみなぎっていたさまざまな問題と取り組んだのでした。ローマの人々が束縛を感じていた部分で、クリスチャンは自由に生きることができました。イエス・キリストが「もろもろの力」に打ち勝ったからです(コロサイ 2:14, 15参照)。そして弟子たちを自由な民にしてくださいました。その自由は教会の宣教にとって重要な意味を持ちました。

 多くの護教家もまた、この自由を詳しく、確信をもって語っています。弁証論の書物は非常にたくさん書かれていますが、それらはクリスチャンの生き方を述べているという点に特別な意義がありました。キリスト教信仰の真理を弁証するために、キリスト教徒がどう生きたかを語りました。回心は宗教的な経験だけではありませんでした。生活のすべての面が変化することでした。

 ガレーノスという異教徒の医者がいます。哲学者でもありました。史上最初の解剖の本を書いたことで知られています。2世紀の後半、彼はキリスト教と出会います。あまり気に入る宗教とは思わなかったけれども、無視することはできない宗教だ、と彼は感じました。この信仰を持つ人たちの生活がすばらしかったからです。彼は書いています。「クリスチャンが死の恐れをまったく持たないことは明らかだ。性的な面で抑制的なことも明らかだ。食物、飲み物について驚くほどの節度を彼らは持っている。正義の追求においてはどんな哲学者にも劣らない」(Robert Wilken, The Christians as the Romans Saw Them)。懐疑的なガレーノスにとってさえも、キリスト教のこのような特質は魅力的だったのです。

 

束縛からの解放

 先に引用したユスティノスの『第一弁証論』には、クリスチャンがどのように変えられたかが詳しく述べられています。少し長いけれども引用します。

 みことばによって真理を知らされたのちの我々は悪霊を捨て、今は、御子を通して[知るようになった]唯一の神に従って生きている。以前は肉欲を楽しむ者だったが今は自制にのみ喜びを見いだす。まじないのわざを用いていた我々が、今は天地創造の恵みの神に自分を献げる。他の何にもまして富と財産を集めることに夢中であった我々が、今は持てるものを共有財産につぎこみ、だれであろうと困っている人たちと分かち合う。以前は互いに憎み合い、殺し合い、同じ種族に属さない者に対しては、習慣が違うということで善意を示そうとしなかった。だがキリストが来られたのちは、他の人たちと食事をともにし、敵のために祈り、理由もなく我々を憎む人たちと和解しようと努めている。それは、彼らもまた、キリストの公正な戒めに従って生きるようになって、我々と同じものをいただく喜ばしい希望を我々とともにすることができるようになるためである……キリストの教えは簡潔であり、明確だった。キリストは哲学者ではなく、その言葉は神の力だったからである。(ユスティノス『第一弁証論』 14 下線は著者)

 クリスチャンはキリストの力により、あらゆる束縛から自由になった、と彼は言います。第一に、肉欲の支配から解放されました。今は神のみを喜ぶことができます。神を信じて、自制できるようになりました。第二に、悪霊の束縛から自由になりました。異教の宗教は、自分の利益のために呪術によって神に祈願します。宗教を利用していました、しかし、今クリスチャンは創造の神に立ち帰りました。第三に、今までは金持ちになることだけに心を使っていました。しかしキリスト教の共同体に入り、富の束縛から解放されました。持ち物を困っている人たちと分かち合えるようになりました。第四に、回心前は人を憎んでいました。違う文化を持つ人たちを軽蔑していました。そしてしばしば戦争が起こりました。しかしイエスを信じたとき、敵を憎むことから解放され、敵のために祈れるようになりました。今まで敵だった人にイエス・キリストを伝えることができるようになりました。その目的は、互いに神の家族になれるようにということです。キュプリアーヌスもカルタゴの人々に説教してこう言いました。「クリスチャンが互いに愛し合っても特別なことではない。イエス・キリストに従おうと思うなら、異教徒ができる以上のことをすべきである。善をもって悪に報いなければならない。神のいつくしみを実践しようと思うなら、仲間うちだけで愛するのでなく、敵をも愛さなければならない」。

 ユスティノスは最後の部分で、クリスチャンの回心が起こるのはキリストの教えによる、と言います。「キリストの教えは簡潔であり、明確だった」のです。しかし「その言葉は神の力」であって、それにより人々は束縛から解放されるのでした。ローマのいろいろな束縛が満ちている中で、自由な社会が出現した。これが宣教のインパクトだ、と言うのです。

肉欲からの解放

 異教徒の性的行動は概して奔放なものでした。厳格な道を説く哲学者や宗教家もいました。しかし性的な放縦を主張し、それを実行する人も多かったのです。その中間に、いわば性的に寛容な立場というのがあって、それが大多数でした。あるストア派の学者は言います。結婚前はできるならば貞潔でありなさい。法にかなった正しい生活をしなさい。けれども放縦にならないようにと厳しく言って、人々にうるさがられないようにしなさい。自分自身が積極的になれないことを、他人にとやかく言う必要はない。

 クリスチャンの性に対するアプローチにもいくつかの違いがありました。主な考え方はユダヤ教の伝統を引き継ぐものです。ユダヤ教では性的行動はこの世的なものであって、訓練される必要があると考えました。クリスチャンの牧会者や著者たちも、婚外の交渉は慎むべきことを強調しました。生涯にわたる夫婦間の約束を大切にしました。貞節を重んじるように共同体づくりが行なわれました。

 徐々に第二の道が発展しました。イエスやパウロの例に従って、初代教会の中に独身制の強調が広がっていったのです。イエスもパウロも、もし独身でいるように召されているならば、それもまた神の国にふさわしい召命だといっています。そこで、ごく初期の時代から、ある人々は性的なものを完全に避けるように主張しました。また配偶者が死んだ後は、独身を守るべきだという考え方も生まれました。いずれにしても、ローマの標準からすると、クリスチャンは驚くほど自制的でした。すべてのローマ人がそれをよいことと思ったわけではありません。しかし、ガレーノスのような人々は、クリスチャンの生き方に興味を持ちました。放縦なローマの人々からすると、キリスト教の標準は厳しいものでしたが、彼はクリスチャンの生き方に関心を持ち、驚嘆の目で眺めたのです。

富の力からの解放

 ローマ帝国では富の分配は偏っていました。そのために苦しんでいる人たちに、クリスチャンは目を向けました。ヘルマスは2世紀半ばにローマで語りました。クリスチャンは神が造ってくださったのもを一人占めしてはならない。必要を覚えている人と分かち合わなければならない。富の分配が不正ならば人々に痛みを与えるからだ。食べ過ぎるならば自分の胃を痛めるし、しかも食べられない人を傷つけることになる。共に食事をする交わりがないことは、すべての人を傷つけるのだ、と。そういう状況の中で、クリスチャンは富の再配分と分かち合いを強調しました。

 クリスチャンは十分の一献金では不充分と考えました。十分の一は旧約聖書の教えです。新約の時代、イエス・キリストの教えに従う人たちは、持っている物すべてを、必要な人と分かち合うべきだと考えました。もっとも、献げものを強く勧めることに恐れを感じる人もいましたが、しかし富んでいる人は実に多くのものを教会に献げました。

 クリスチャンは日曜日ごとにさまざまな献げものを持って集まってきました。それを、集会する部屋の入り口近くのテーブルに置きます。献げものは食事の交わり、聖餐の式に用いられ、残りは共有財産となりました。テルトゥリアーヌスはこれを信仰による「トラスト・ファンド」(信託資金)と呼びました。異教徒なら持ち寄ったものを饗宴で使い果たすところですが、クリスチャンは必要な時にいつでも使えるように残しておきました。そして貧しい人、お年寄り、遭難した船乗り、鉱山労働者、遠方から迫害を逃れて来た人たちのために、信仰の証しとしてそれを使いました。テルトゥリアーヌスはここに魅力的な伝道の姿を見ます。教会の外の人たちは、「クリスチャンはなんと互いに愛し合っているのだろう」と語り合ったと言うのです(ガレーノスの言葉。テルトゥリアーヌス『弁証論』 39. 7)。ヘンリ・チャドウィク(1920〜、イギリスの教父学者)によると、富に対するクリスチャンの態度こそ、初代教会の宣教が伸びたいちばん大きな要因の一つでした(Henry Chadwick, The Early Church)。

 また豊かな教会が貧しい教会を助けるというかたちの分かち合いも行なわれました。キュプリアーヌスは言いました。すべての教会は一つの大きな家族のメンバーだ。一つのメンバーが苦しめば家族みんなが苦しむ。交わりの中の誰かが困っているときは、共に傷みを負い合い、みんなで助ける。キリストの体である教会が苦しんでいるからだ。

 この助け合いは、教会の外の人たちにも広げられました。165年、250年、310年と3回にわたって、ローマに大疫病が発生しました。一つは、はしかの激しいもの、もう一つは疱瘡だったようです。たくさんの人が死にました。金持ちの異教徒は町を捨てて地方に逃げました。病気の人を置き去りにし、自分の愛する者だけを引き連れて出て行きました。道端に捨てられた病人が死ぬと゛ごみ"として扱われました。そんなとき、クリスチャンは町に留まりました。身の危険をもかえりみず、懸命に病人の看病をしました。イエス・キリストに従う者として、誰でも助けました。クリスチャンであるかどうかにかかわらず、誰でも助けました。もちろん、クリスチャンは熟練した医者ではありませんでした。しかし少量の水と食物の提供が、どれほど多くの生命を助けたか分かりません。

 クリスチャンはなぜ異教徒と違うふるまいができたのでしょうか。異教徒の宗教では儀式が重んじられました。その儀式を通して自分が祝福されることを祈り、祈願がささげられました。いわば神を自分の利益のために利用したと言ってもいいかもしれません。他の人との連帯や、敵への愛はそこにありません。しかしクリスチャンはイエスを通して示される神の愛にとらえられた人たちでした。それで、人を愛することができるようになりました。永遠の生命に生きていました。神に従い、自分の生命を犠牲にする自由を持っていました。

 クリスチャンの愛の行ないは次のような結果をもたらしました。一つは、クリスチャンの世話で助かった人々が心を動かされたということです。異教徒はクリスチャンが病人の世話をするのを目撃しました。クリスチャンのしたことが、異教徒の間で評判になりました。その結果、彼らとクリスチャンとの間に信頼関係が生まれました。宗教に魅力を感じない人々にとっても、キリスト教は信頼に足るものと思われました。教会史家エウセビオスによれば、クリスチャンの愛の行為は、すべてのローマ市民の口の端にのぼったと言います。ローマ人が、キリスト教の神はすばらしいとほめ賛えたのです。

 二つ目は推測ですが、疫病から助かった人の数は、異教徒よりもクリスチャンの方が多かったと思われます。キリスト教共同体は病人に看護の手を差し伸べたけれども、異教の人たちはそういうことをしませんでした。それで、疫病にかかっているクリスチャンに水と食物が与えられて、回復した可能性は大きかったに違いないというのです。クリスチャンの方が3、4倍の確率で生き残ったろうと言われます。ローマの人口が減っていく中で、クリスチャンの数は増えていきました。互いに愛し合いなさいというイエス・キリストの命令が、このように実を結んでいったということかもしれません。はっきりしていることは、クリスチャンは信仰のあるなしにかかわらず、すべての人に救いの手を差し伸べたということです。

暴力からの解放

 キュプリアーヌスは次のように嘆いています。「世界全体の至る所で戦争が行なわれている。軍隊が駐在している所では凄まじいほどの血が流されている。流血が世の中に満ちている。ある個人が殺人を犯すならばそれは犯罪だが、社会が正義の名のもとに血を流すならば、それは褒められることとされる」(『書簡』 1. 6)。

 クリスチャンはこの点に関して、教会の中で特別に教育と訓練が必要だと考えました。世の中でどういうことが行なわれているかに気づいているだけでなく、それとは違う生き方をすることが大切とされました。一般の人にとっては入隊を完全に拒否するのはかなり困難でした。また、軍隊にいる間にキリストを信じるようになった人もいました。250年に、そのような人たちの扱いに関し、司教のための最初のガイドラインが書かれました。「その者は兵役の期間が終わるまでは軍隊に留まってよろしい。しかし絶対に人を殺してはいけない。もし人のいのちを取るようなことがあれば、教会員として受け入れることはできない。あくまで非戦闘要員でなければならない。またバプテスマを受けてクリスチャンになった後は、軍隊に入ることは許されない。そのようなことを望むのは、神を軽蔑するのと同じことだ」(詳しくは Hornus, It Is Not Lawful For Me To Fight, tr. by Kreider and Coburn の第5章を見よ)。

 コンスタンティーヌス帝以前のクリスチャンは戦争に反対していました。なぜクリスチャンは人を殺してはならないことを強く主張し、このことに関して多くの文書を残したのでしょうか。第一に、イエス・キリストの教えに従う者は人を殺すことができないからです。戦争は「汝の敵を愛せ」というイエスの教えに反します。確かに旧約聖書には聖戦という概念があります。しかしこれは普通の戦争とはまったく違った範疇の事柄です。そして新約聖書では、イエスはペテロに「剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われました。主はすべての人の武装を解除したのです。第二に、二人の主人に仕えることはできないからです。軍隊は皇帝にいちばんの忠誠を誓います。クリスチャンのいちばんの忠誠は、主であるキリストにささげるべきでした。第三に、生命の尊厳を重んじるからです。クリスチャンは生命を大切にしました。死ぬまで戦うような格闘技には参加しませんでした。ローマ人のように、人が人を殺すのを見物することなどできませんでした。妊娠中絶にも反対しました。第四に、神が今新しい国をつくろうとしておられるからです。武器を農具に変えるという旧約の予言が成就しようとしていました。敵を愛することが異教の地でも少しずつ実現していました。国家間では敵同士であっても、それぞれの国にクリスチャンがいれば、その人たちは兄弟姉妹です。しかも宣教のヴィジョンがいつも燃えていました。今は敵国の人であっても、いつ兄弟になるか分からないのです。戦争はその兄弟を殺してしまうかもしれないということです。しかし、この点ですべてのクリスチャンが教会の教えに従っていたわけではありません。3世紀になると、軍隊の中にクリスチャンがだんだん存在するようになりました。具体的な戦闘行為に関わった人もいました。しかしコンスタンティーヌス帝以前の教会は、全体として非暴力の姿勢を貫いていました。そして殺すことの拒否が、宣教を押し進めたと言えるのです。

 

悪霊からの自由

 ローマの人々は運命や悪霊や呪術のとりこになっていました。さまざまな「霊力」「諸力」の束縛を感じていました。それがある人にとっては神々となり、ある人にとっては社会の中で自分を縛っている力となっていました。誰もが何かの霊の影響を受けていると考えていたのです。それで、どんな霊に満たされるかが問題でした。束縛の霊に支配されているのか。それとも、本当の神の霊によって解放を味わっているのか。冒頭でお話したキュプリアーヌスは、自分が富への欲望と野心の霊に縛られていると感じていました。お金があってもみじめでした。しかし神の力によって自由な神の子とされることを、彼は体験しました。クリスチャンとはその解放を体験した人のことです。

 ではどのようにして霊の束縛から解放されるのかが問題となります。この自由を得るために、悪魔払いが重要な働きをしました。バプテスマの準備の時には、悪魔払いが何回も行なわれたことが知られています。ある学者は当時の悪魔払いを、今の麻薬患者が中毒から抜け出す時のプログラムにたとえています。患者を捕らえて離さない力から、抜け出す道が備えられるということです。まず、イエス・キリストがその人を支配する主となってくださるように、という祈りがささげられます。そしてそれまで支配していた霊に対して、出ていくようにと命じます。現存している悪魔払いの祈りのすべてに、悪霊が出ていくようにという命令と、代わりに聖霊が入ってきて、この人が自由にされるように、という祈りがあります。時には悪魔払いはバプテスマの準備以外にも行なわれました。特別な訓練を受けたクリスチャンのリーダーがこの働きに当たりました。ある学者によると、運命的な霊に捕らえられていた人々が、イエス・キリストを信じて解放され、聖霊の支配に入れられたこと、これも初代教会の宣教の重要な要素でした。

 回心したキュプリアーヌスは聖霊の力について、次のように述べています。

 御霊は思いのままに流れ出て、何ものもそれをとどめることはできない。何かの囲みの中に閉じこめようとしても、どんな障壁もそれをさえぎることはできない。絶えることなくそれは流れる。その豊かさは惜し気もない……そこから力が与えられる……単純な声で、汚れなき徳をもって、[その力は]毒の害悪を打ち消し、病人をいやすことができる。健康を取り戻し、愚かな魂のけがれを清めることができる。敵意を持つ者たちの間に、平和を告げることができる。(キュプリアーヌス『書簡』 1. 5)

 新しくクリスチャンになったキュプリアーヌスが、聖霊のすばらしい力を賛えています。その力は無限であって、驚くべきことをしてくださる。病をいやし、愚かな者の魂を清める。敵意を持つ者同士を和解させる。聖霊はこのようにして悪霊を追いやり、そしてそこに真の解放がある、と言うのです。

病のいやし

 ヒエローニウムスは390年の著作の中で、ある霊的な賜物を持った人が病人をいやしたことを記しました。そして多くの人がそれによってキリスト教に魅かれるようになった、と言います。できごとそのものは3世紀半ば、つまり著作より150年ほど前のことです。

 [ヒラリオーニスは]その女性の高熱に悩むからだに向かって……十字を切り、イエスの名を呼んだ……人々はシリアから、エジプトから、彼のもとに集まってきた。その結果、多くの人がキリストを信じた。(『ヒラリオーニスの生涯』 15)

 このような劇的な記事はしかし、この時代の文書にはそれほど多いわけではありません。むしろ、それぞれの教会で、さまざまな人がいやしの祈りをささげていました。いやしは教会の中に賜物の一つとして与えられたものでした。初代教会の司教の一人は、いやしをする特別な人々のグループについて語っています。彼らはいやしの祈りをして、その賜物が自分に与えられていることを示しました。イエスがいやしの主であられることはよく知られていました。建物の壁にそのような絵がかけられていることが多かったのです。クリスチャンが病気になると、教会ではみんなが祈る。それは日常的なことでした。高層住宅の階段で、自分の娘が病気になったという会話が交わされたりします。するとクリスチャンは、その娘のために祈ってくれる人を紹介するのです。いやしの祈りのできる人を連れて来ます。ですから、いやしの祈りはごく普通の事柄だったのです。しかし3世紀になると、悪魔払いやいやしの祈りはだんだん少なくなります。4世紀には、このような祈りは特別な聖徒が行なうこと、あるいは特別な場所で行なうこととなります。


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