第6章 礼拝

共に集う

 初代の教会が守った礼拝がどのようなものであったかを、資料をもとにして見ていきましょう。初めに取り上げるのはディダケーです。「十二使徒の教訓」とも呼ばれるこの文書は、2世紀前半にシリアで書かれたものです。宛て先は、マタイ福音書の影響を受けた共同体と考えられます。ユダヤ教の背景を持った初期のクリスチャンのグループです。これは初代教会の礼拝について書かれたものとしていちばん最初の文書といっていいでしょう。

主の日――主の特別な日――ごとに、共に集い、あなたがたの献げものが清くされるように、先ず自分の罪を告白し、それからパンをさき、感謝をささげなさい。隣人と仲たがいしている者はだれでも、相手の人と和解するまでは、あなたがたと一緒に集まってはならない。あなたがたの献げものが汚されてはならないからである。(『ディダケー』 14 下線は著者)

 共同体は「主の日」ごとに集まる、と記されています。新約聖書では「主の日」は週の最初の日です。「主の日」という言葉は黙示録に一回だけ出てきます(1:10)。クリスチャンの礼拝は、異教の場合とは違って、共同体に属する者みんな一緒に集まって行ないます。(これに反して、たとえば神社の祭りなどでは、群衆の中の個人が拝む。あるいは奉納される神楽などを見物する)。ヘブル10章25節には集会を守ることの大切さが言われていますが、そこでも共に集まることが強調されています。

 彼らは集まって聖餐をし、一緒に食事をしました。食事が共同体の活動の一部でした。パンをさき、感謝の祈りをささげてから食事をしましたが、それはユダヤ教的な背景から来ています。ギリシャ語の感謝(ユーカリスティア)という言葉は、のちに聖餐という意味に発展しました。礼拝の前の罪の告白は、大切な礼拝の一部分でした。隣人との和解を具体的に表わす必要があったのです。マタイ5章21〜26節には、「祭壇に供え物をささげようとする場合、……まず行ってその兄弟と和解し……なさい」と教えられています。仲直りをしてそれから礼拝をしなさいというイエスの教えを、この共同体は忠実に守りました。兄弟姉妹との和解と平和の中ではじめて、神との和解、神への礼拝がささげられました。

 

礼拝の内容

 初期の礼拝がどのようなものであったかを詳しく書いてあるものに、ユスティノスの『第一弁証論』があります。クリスチャンが礼拝でどういうことをしているのかを、彼は異教の人に説明しています。いわば伝道的な意味を持つ文書です。礼拝そのものは伝道を目的とするものではなく、信徒のための集会でした。コリントの教会の集会には信徒以外の人が参加していたようすが描かれていますが(第一コリント14章23節以下参照)、のちに変わっていきました。礼拝の最初の部分は、カテキズムの教えを受けた人のみ出席を許され、聖餐式はバプテスマを受けた者だけが参加しました。しかしそれは宣教する人たちでした。宣教する共同体の礼拝、ということです。

 太陽にちなんで名づけられた日[日曜日]に、町に住む者、田舎に住む者すべてが共同の祝いのために集まって来る。それから、時間の許すかぎり、使徒たちの覚え書き、あるいは預言者たちの書きものが読まれる。読み手が[それを]終わると、式を司る者が話をし、これらの美しい教えを自分たちの生活のなかで実践するようにと、聞き手に強く訴える。それから一同は共に立ち上がり、祈りを唱える。祈りののちに、パンとぶどう酒(水でうすめたもの)が運び込まれ、司式者はできるかぎりの力をこめて、祈りと感謝をささげる。人々はアーメンをもってそれに唱和する。それから、その感謝の言葉をささげられたもの[パンとぶどう酒]が、出席者全員に分配される。執事たちはその一部を欠席者に届ける。

 富を持っている人たちでそのように望む者は、それぞれが自分で献げる額を決めて献げものをする。集められたものは司式者のもとに預けられ、彼は[それによって]孤児ややもめ、また病気その他の理由で困っている人たち、負債で苦しんでいる人たち、また我々の間の寄留者となっている外国人たちの世話をする。つまり、彼は困っている人たちすべてを保護する者となるのである。我々はみな、この共同の集いを、太陽にちなんで名づけられた日[日曜日]に行なうが、この日が[週の]最初の日であって、その日に神が暗闇と”水”を変えて宇宙を創造なさり、また我らの主イエス・キリストがその日によみがえられたからである。(ユスティノス『第一弁証論』 67)

 ローマのクリスチャン共同体が日曜日の早朝に集まったことが分かります。日曜日はしかし休みではありませんでした。(321年になって初めて、コンスタンティーヌス帝が日曜日を休日に定めました)。彼らは朝早く礼拝を守り、そのあと、それぞれが仕事に行きました。ここでも、共同体の人々が一緒に集まることが強調されています。

説教

 「使徒たちの覚え書きや預言者たちの書いたもの」、つまり福音書や旧約聖書が時間の許す限り読まれました。その後、司式者が説教をします。(これが説教について触れられているいちばん最初の文書です)。今読んだ聖書の箇所に基づいて語るのです。聞く者にとって重要なテーマについて語ります。忘れてならないのは、おそらく個人の家でこの集会が行なわれていただろうということです。大会衆に向けて演説するのではなく、小さな集まりの中での勧めです。説教を表わすギリシャ語のディアレゴーもラテン語のセルモも、共に「対話」を意味する言葉です。聖書を開いてその意味について質問を受け、それに答えるといった類のものでした。たとえば、伝染病が広がっているという状況があるときに、どうしたらいいかと質問されます。すると「父の家にはすまいがたくさんある」とイエスが言われた箇所(ヨハネ14:1以下)について語るのです。あなたがたには希望がある。異教徒にはない希望を、あなたがたは持っている。神はイエス・キリストを通して愛を示してくださった。だからわたしたちも、苦しんでいる人のため生命をささげることができるのではないか。このような教えの結果、伝染病で死にかけている人への奉仕活動が生まれるのでした。説教を聞いてそれを実践していくことは、クリスチャンの共同体にとって最も喜びに満ち溢れる体験でした。

祈り

 説教の後みな「立ち上がって祈りを唱え」ます。まず第一に主の祈りをしました。初代教会のクリスチャンたちは1日に三回、主の祈りをささげました。主の祈りは、彼らの祈りの基本的なアウトラインとなりました。まず天の父なる神に向かって祈ります。そしてそのあと、天の父なる神というテーマに基づいて祈りを進めます。イエスの教えられた祈りの基本に従い、しかし自由にそれに自分の祈りを付け加える、という形でした。聖書朗読、説教、共同体の祈り、これらはユダヤ教の会堂における礼拝と共通していました。しかしユダヤ教の人々はここにいて、あまり居心地はよくなかったと思われます。イエスの主の祈りがあり、福音書が読まれるからです。ユダヤ教の伝統にそっていますが、イエスによって教えられた新しいものが多くつけ加えられています。

平和のあいさつ

 ここまででカテキュメン(バプテスマの指導を受けている人たち)はその場から離れるよう求められます。そして聖餐式になります。しかしその前に、重要な段階がありました。『第一弁証論』の他の部分に、「祈りののち、平和のあいさつを交わす」ということが出ています。これは「平和の抱擁」とも呼ばれます(のちには単に「平和」と呼ばれるようになりました)。ローマ16章16節には「きよい接吻をもって、互いにあいさつをかわしなさい」とあります。このあいさつには二つの意味がありました。一つは聖霊によって経験している一体感を具体的に示すことです。もう一つは、互いに和解していることを形に表わすことです。仲たがいしている人たちの場合は、これが和解のプロセスを始めるきっかけとなりました(『使徒の教え』 2. 54)。礼拝の前に和解をするというイエスの命令を、彼らはよく覚えていて実践しました。

聖餐

 こうして聖餐式になります。「パンとブドウ酒(水でうすめられたもの)が運び込まれ」と書いてあります。人々は食物、衣類、お金を持って礼拝に集まって来ました。それを入口のテーブルの上に置きます。テーブルに溢れるほどに載せられたものは、聖餐式に用いられ、また必要な人たちに配られました。人々はパンも水も持ってきました。ブドウ酒は高価なものでした。金持ちはブドウ酒、貧しい人は水を持ってきました。みんなが何かを持ってきて分かち合うところに交わりの共同体の姿があります。ブドウ酒1、水3の割合で混合しました。それから、司式者が「できるかぎりの力をこめて、祈りと感謝をささげ」ます。ある人は、他の人以上に祈りの賜物をいただいていたと思われます。また、この祈りは書いたものを読む祈りではありませんでした。「感謝をささげ」というところに目をとめたいと思います。非合法とされ、迫害を受けていた共同体です。しかしそこに喜び、感謝、神への賛美が満ち溢れていました。リーダーが賛美すると会衆がアーメンと唱和しました。そのアーメンがまるで雷のように響くのです。神がすばらしいものをくださった。神の国をこの世にもたらしてくださった。わたしたちはその運動の一部だという意識が、そこにありました。祈りと感謝の後、パンとブドウ酒が配られます。執事たちは貧しい人、病気の人も聖餐にあずかれるように配慮します。

献げもの

 初期の頃から、礼拝は持ち物を分かち合う時と考えられていました。第二の文書によると、人々は自分たちにできるかぎり多くのものを献げるように求められています。十分の一献金の教えに従うのではなく、神の祝福に応えて、自由に献げるように促されました。献げられたものの使い方は共同体のリーダーに任されていました。そのリーダーにはみんなの必要を把握しておく責任がありました。「困っている人たちすべてを保護する者」と彼は呼ばれます。さらに、世話をされる人たちは、必ずしも共同体のメンバーだけではなかったことが、この文書から分かります。牢獄に捕らえられていた人、病気の人、さらには外国人もいました。

週の最初の日

 この文書の最後に、週の始めの日に集う意味が説明されています。それは創造の最初の日であり、しかし同時に、主キリストがよみがえられた日でもあるということです。創造の日と再創造の日、1日目と8日目です。8という数字が大切にされていました。初代教会はときどき、洗礼槽を八角形につくりました。神がかつてないことをわたしたちにしてくださったということが、ここで象徴的に表わされています。8日目は新しい創造がなされた日、新しい生命、エネルギーが与えられた日、それ故にわたしたちに喜びがあるということを意味する日となりました。彼らは集まったとき、礼拝を通して、心の中に確信していることをドラマとして表現しようとしました。自分にとって最も重要な価値を具体的に表わそうとするなら、それは健全な礼拝のかたちといえるでしょう。

 

さまざまな礼拝のかたち

 時代により、場所により、礼拝にもやがて、さまざまなかたちができてきました。資料に基づいて、それらを見ていきましょう。

分け隔てのない礼拝

 次に引用するのは250年頃に書かれた文書です。

 しかし、もし貧しい男または女が来たならば、そして特にその人たちが、老齢のために悩んでいて、そして泊まる場所がないならば、監督よ、たとえあなたが床(ゆか)に座らなくてはならなくなったとしても、あなたはまごころをこめて、彼らのために場所を用意しなければならない。あなたが、えこひいきをする人のようになることなく、あなたの奉仕が神に受け入れられるためである。(『使徒の教え』 XII)

 これはどこか個人の家の状況です。誰かが戸口にやってきます。スパイか教会のメンバーかわかりません。いつもは男女別々に座っています。そこに新しい人が来ます。しかも貧しい人か老人の場合が多いのです。すでに部屋がいっぱいになっているときは、どこに座っていいか分かりません。そういう場合、教会のリーダーが席を譲るべきだ、とこの文書は言います。みんなが椅子に座っているわけではありませんが、リーダーはたいてい椅子に座っていました。椅子は教える者の権威を表わしました。それを明け渡すのは、あまり簡単なことではないけれども、そうするように勧められています。富があるかどうかで差別しないことがここで示されます。使徒10章34節を彼らは実践しました。神は人をわけ隔てしない、というテーマは初代教会の文書に繰り返し出てきます。

 この文書はコンスタンティーヌス帝の70年後、すなわち385年に改訂されました。改訂版は『使徒憲章』と呼ばれますが、そこでは「監督」(司教)が席を明け渡すという部分が削除され、貧しい人が入ってきた時は執事がどこに座るかを指示する、というふうに変わりました。そして司教は自分の席にそのまま座っているようにと記されています。この『使徒憲章』は教会の指導者、司教の行動の指針となり、一世代ごとに少しずつ改訂されました。最初のものが書かれて約100年後には、教会のリーダーのあり方が変わってきたことがそこに示されます。385年頃には、人々は家にではなく大聖堂に集まるようになり、司教の椅子も非常に立派なものとなりました。

異教徒の見た礼拝

 クリスチャンに敵対する人が書いた文書を次に見ます。プリーニウスは北トルコのポント・ビテニア地方の総督でした。皇帝に絶えず報告を書いていたのですが、これもその報告の一部です。ポントへの旅の途中で彼はクリスチャンに出会い、彼らを迫害しようとします。そこでリーダーを二人捕えて、クリスチャンに関する情報を得ようとしました。拷問をした結果、クリスチャンについて分かったことを、彼は感想を交えて皇帝に報告したのです。112年頃の著作です。

 [クリスチャンは]定められた日の夜明け前に集まって、神に対するのと同じようにキリストへの賛美を交わし合うならわしでした。そして、いかなる悪業も行なわず、どんな詐欺、盗み、姦淫も犯さず、偽りの言葉を決して語らず、預かり物を返還するように求められたときにはそれを断らないという、厳かな誓いを立てるのでした。そののちいったん別れて、それからまた食事をとるために再び集まるのが彼らの習慣でした。それは普通の無害な食物でした。けれども、それさえも、政治的な集団を禁止するという布告を私が出してからは、彼らはやめてしまっていたのです。(プリーニウス 『トラヤーヌス帝への書簡』 X. 96)

 まずクリスチャンが夜明け前に集まっていたことが記されています。彼らは「神に対するのと同じようにキリストへの賛美を』していました。リーダーと会衆が交互に賛美し合います。リーダーが始めモノトーンで歌い、最後の部分で声の趙氏をちょっと挙げる、すると次は会衆が歌う、そしてそれを繰り返すというスタイルです。このような交唱はその後もクリスチャンの間でずっと続けられてきました。これは詩篇を交互に読む伝統から来ています。楽器は使わずメロディだけの斉唱でした。詩篇を歌うことが多かったのですが、自分たちでつくったものを歌って賛美することもありました。それがまた、信仰の告白にもなっていました。大切な告白を歌にしておいたのです。そうすると、覚えやすいということもありました。そういうわけで、彼らは「キリストへの讃美」を歌いました。

 彼らは「いかなる悪業も行なわない……という厳かな誓いを立てる」ということが次に書かれています。ラテン語で”誓い”はサクラメントゥム(=バプテスマ)です。バプテスマにおいて、これから神にふさわしい者として生きていくことを誓った、ということです。クリスチャンを迫害していたプリーニウスが、クリスチャンのそのような誓いに気づいたのは、驚くべきことです。

 もう一回食事をとるために、夕方集まるのが彼らの習慣だった、とあります。けれどもプリーニウスは集会をやめさせるために圧力をかけました。彼らは何か政治的な、陰謀をたくらむ会合をやっているのではないかと思ったのです。それで、夜の集会はやめてしまったが、しかし朝の集会はやめなかったということが、この文書から推測できます。彼自身、布告を出して夜の集会をやめさせたが、クリスチャンのしていることは「普通の無害な食物」を食べることだったと報告しています。その食事を共にすることさえも、迫害のために中止せざるを得なくなったのでした。

モンタノス派の礼拝

 次に見るのは、210年頃に書かれた、北アフリカの共同体を背景とする文書です。形式に縛られない、自由な礼拝のようすをうかがうことができます。

 我々の間にひとりの姉妹がいるが、彼女は啓示の賜物を与えられている。彼女はそれを、主の日にいつもの礼拝を教会で守っているときに、御霊によって恍惚状態を与えられることにより、体験する……聖書が読まれ、あるいは詩篇が歌われ、あるいは説教が語られ、あるいは祈りがささげられるとき、それらすべての時が、幻を与えられる時となる。(テルトゥリアーヌス 『霊魂論』 IX. 4)

 初代教会の礼拝はかなり自由でした。礼拝の準備はしましたが、神が集会で自由に働いてくださることを期待しました。いつ、どのように、神が働かれるのかは分からないわけですから、いつも心備えをしていました。3世紀初めになると、教会指導者のある人たちはこの自由に不安を感じ、疑問を抱くようになります。教会の中に異端や無秩序が生まれるのを恐れたのです。そして自由な集団をモンタノス主義と名づけました。しかしモンタノス派の礼拝は、初代教会の初期の礼拝の持ち方をとどめていました。その後失われてしまった特徴を、彼らの礼拝に見ることができます。

 聖書が読まれ、説教があり、詩篇があり、祈りがささげられます。これは前と同じです。しかしこの順序のそれぞれの間に、神が自由に働かれるよう、御霊が自由に語りかけることができるように、余裕が取られています。ここに記されているような「御霊によって与えられる恍惚状態」とか「啓示の賜物」が、具体的にどんなものだったか、わたしたちには分かりません。しかし、神が介入されて、自分たちが期待していなかったような特別な状態をつくり出してくださることを、教会が待っていたこと、オープンだったことは明らかです。

自由な祈りと定められた祈り

 北アフリカからローマの教会に移ります。ここでも、自由な形の礼拝と、ある形式に従うやり方とが、ともに出てきます。215年頃の文書です。

 もし誰かが油を献げるならば、監督はパンとぶどう酒を献げる場合と同じ方法で、感謝の祈りをささげなければならない。一語一語同じ言葉を使ってではなく、同じような思いをもって、ということである。……監督は上に述べたようなやり方で感謝をささげなければならない。神に感謝をささげるときは、まるで記憶した言葉を朗唱するかのように、前に述べたのと同じ言葉をそのまま繰り返す必要はまったくない。ただそれぞれが、自分の力に応じて祈ればよい。もし長い祈り、厳粛な祈りをすることができるならば、それはよい。しかし、もし誰かが祈るときに、短い祈りをするならば、彼をとがめだてしてはならない。ただ、健全な、正統的な祈りでなければならない。(『使徒伝承』 5. 9)

 誰かが油を持ってきたとき、共同体のリーダーはどんな祈りをささげたらよいか、が問題になっています。そのとき、自由に祈っていいことが強調されます。しかし、いろいろなかたちの祈りの賜物が人々に与えられています。ある人は長い厳粛な祈りをするが、それもいい、と言います。定式化された祈りというものはありました。たとえば聖餐式のときにどのように祈るかは、長い伝統の中で、ある一定の型ができあがりました。まず創造主である神に感謝し、次にイエスの生涯、死、復活という一連のあがないの業を感謝して神に祈るのです。しかし、このような定められた祈りと共に、共同体に力を与えてくださる聖霊の働きも認められていました。自由に祈ってもよかったのです。現代の教会で使われている聖餐式の祈りにも、創造、あがない、神の民の間に働かれる聖霊が出てきます。しかし最終的な強調点は、神の国がわれわれの所に来ていること、力をもってわれわれの間に実現しつつあるというところにあります。ところが、祈りは徐々に定式化されていきました。4世紀になると明確に文章化された祈りになります。それは、正統的な神学を保持する方向に強調点が移ったということです。

 初代教会の礼拝について見てきましたが、その特徴を三つの言葉でまとめることができます。初代のクリスチャン自身が用いた言葉です。それはアガペー(愛、食事)、コイノニア(分かち合い、交わり)、ユーカリスティア(感謝、聖餐)です。


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